かつての因習的な社会ではいずれ女性は妻であり嫁であり母でありという役割を三位一体で担うことが前提とされ、それと対になって男性は夫であり婿であり父であるという立場を負うことになった。
三重の結合であるから厄介と言えば厄介であるが、強固だと言えば強固である。
しかし時代は移り、男女とも属す場所は変わった。
いまや嫁や婿といった役割など不問となりつつある。
男女とも勤めに出て、あれやこれや忙しく、それで精一杯。
嫁という名の従業員役までとてもこなせず、それと連動し、婿って一体何なのか、その存在意義も希薄化していく。
そして同時、夫や妻といった言葉もその内実を失っていくことになる。
相手あっての夫や妻。
男女の別が意味を失い始めると、そこに内包されていたはずの理念のようなものは形骸化していく。
気忙しい現代社会、相手を想う気持ちの余白はついうっかり失われ、あのときの初心は今何処、(良き)夫であろう、(良き)妻であろうといったモチベーションは相互作用でたちまち枯れる。
残る役割は父か母。
子があれば、たいていの人間は父であろうとするし母であろうとする。
夫や妻といった新顔レベルの言葉とは異なり、社会形成以前から父性や母性という概念は存在し本能とも分かちがたく結びついている。
つまり、父であろうとする意志と母であろうとする意志が交差する地点において、男女の連帯というものが存立し得る。
だから、誰かと出会った際、見るべき最重要はそこになる。
この人は、子を育てる知や情を有する人物なのだろうか。
そこに一目置くことができそうなのであれば、共同プロジェクトのパートナーとしてその関係は長続きするだろう。
もしあてが外れたら。
相手ひっくるめてその父か母になるしかない。