侍が7人いたとして、この全員を一つ所で召し抱えるのは至難である。
80対20の法則が作用してシェア100%は起こり難い。
せいぜい一体となるのは5人ほどで他の2人は与しない。
そう想定するのが現実的な見通しとなる。
その一方。
たとえば塾が喧伝するように関西に7つの際立った中高があったとして、A判定で臨んだところで100%合格確実とは楽観できない。
ここでも80対20の法則を念頭に置くべきで、撥ねられる不本意をも織り込む危機管理が不可欠となる。
だから侍くんたちからすれば、そもそもの最初から選択肢は複数あった方がよく、切望しても叶わない場合があるから併願できた方がありがたいということになる。
そして結局、その「選択の綾」と「併願の綾」によって7人の落ち着き先が、母数に応じて大なり小なり7様に近い形でバラけて決まる。
が、7様と言っても元を辿れば頑迷な学歴主義のもと塾に通って鼓舞されてきた同じ穴のムジナ。
タイガーマスクで喩えれば「虎の穴」の同門ということであるから、どこに行こうが俯瞰して見れば異なる点より似通う所の方がはるかに大きい。
だから「小さな差異」を過大視すれば同じ宗教の不毛な宗派争いみたいなものとなり、タイガーマスクとライオンマンがいがみ合ってそれでもたらされる益は何もない。
そんな無益は百も承知で当の侍くんたちはノーサイドとなった後、戦友として互いを認め合う。
が、犬も食わない「小さな差異」を声高にする者らが時にいて、個人的な不完全燃焼でもこじらせたのか、そんな彼らの名前を親という。
そういった小喧しいノイズが飛び交うなか、元が同じ穴のムジナであるから中高時代もさして彼らの過ごし方に大差は生じず、学歴主義という根本思想の縛りも強固に、親と教師に間近あるいは遠巻きに取り囲まれ、その呪縛が緩むことなく今度は大学受験で相まみえるということになる。
ここでたとえば文系を志し関西にあって京大に惹かれないのであれば、腕に覚えある者の目は東大に向くことになるがここもまたハードル高く、腹を括ってもなおチャレンジするには肝が冷える。
そんなとき安全ネットとして早慶があればまさしく福音。
清々しいような思いで跳躍できる、というものであろう。
やはり選択肢は多い方がよく、併願もできた方がいい。
ここにおいても「選択の綾」と「併願の綾」によって、侍くんたちは主流と支流の別はあれ適当にはけて各自の持ち場に散っていくということになる。
引き続き飛び交うノイズなど、どこ吹く風。
主流であれ支流であれ、その流れは未来へと続く。
侍くんたちは各自の川の流れを悠々と進み、適当にばらけた多様が未来をはらみ、そういう意味で包括的に見てどれもが正解への道と言えるだろう。
長く生きればよく分かる。
主流と支流に一体何の差があるのだろう。
学歴主義にとらわれるにせよ、親が教えるべきは「何としても主流で」といった頑迷ではなく、人生は胸躍るようなアドベンチャー、支流であっても良き未来に漕ぎ着ける、といった福袋的な視点ではないだろうか。
こっちはOK、そっちはNG。
所詮はどっちもどっちについてそう語り始めると、息苦しい。
差別主義者が発する言葉はいつだって不快で醜悪。
21世紀に生き、歴史に学べば誰だってそう感じるのが普通であろう。
そっちもOK、こっちもOK。
豊かに支流が張り巡らされ、そこにもここにも勢いがあった方が巡り巡って皆の益になる。
おれはここ、おまえはそこで。
一生懸命頑張ろう。
そう励まし合うのが「侍」の心得であるべきだろう。