1
人身事故の影響によりダイヤが乱れた。
京都へ向かう新快速は混み合うだけでなく途中何度も停車を余儀なくされた。
日曜朝の7時過ぎ、JR京都線の茨木駅附近の踏切で快速電車が人をはねたのだいう。
詳細は不明だが偶発的な事故であったといったニュースはないので自死なのであろう。
余波は午前中一杯に及んだ。
新快速なら尼崎駅から大阪駅まで通常5分程度の区間であるが、私たちが乗った電車は優に30分を要した。
線路上うんともすんとも言わず停車する電車のなか、こうなるのだと知っていれば行楽先として京都ではなく神戸を選択するべきであったと私は悔いた。
2
窓外は塚本あたりの工場地帯。
所在なく突っ立ったまま無味乾燥な景色に目をやる。
赤ちゃんの笑い声が聞こえる。
私が立つ場所から見て左手向こう側、ドア附近の座席背面にもたれるようにして女性が立っている。
赤ちゃんを胸に抱き、しきりに話しかけあやしている。
あやすのをやめれば今にも泣き出しかねない、だから途切れなく笑いかけ声をかけている。
そのような様子に見える。
誰一人としてその母親を気遣い席を譲ろうといった気配はない。
母親を取り巻く寒々しい光景はここらでは見慣れた日常のシーンである。
大阪ならでは。
世界広しと言えど他所でこんな場面にお目にかかることはないであろう。
気のいいマイケルやミシェルやミヒャエルやミゲルやミケーレがここにいたなら見て見ぬ振りするはずがない。
3
一方の右手側。
車両中央の密集地帯に立っていた女性がドア側に移動するのが目に入った。
ドアにもたれかかる。
ドアに手をつきカラダの前面をドアに預けるようにしている。
ひと目で具合を悪くしたと分かる。
周囲も気づかないはずがない。
若く綺麗な女性なので尚更のこと。
目を引かないわけがない。
ドアにもたれ沈痛な様子だ。
しかし誰からも気遣われる様子がない。
誰も手を差し伸べない。
私は左右遠くの景色から目を離せない。
4
電車が動き出す。
大阪駅に到着すれば状況が変わる。
大半の人は下車し息苦しい密室状態が晴れて終焉を迎える。
あと少しの辛抱。
電車は進みまもなく大阪駅。
しかし、希望の光りに包まれたのも束の間、大阪駅を目前にして電車は再び停車した。
ここで右手の女性が崩れ落ちた。
もう限界であったのだろう。
崩れ落ちてはじめて周囲が手を貸した。
おばさんが席を空け、そこに女性を座らせた。
そして私は左手側に目をやる。
赤ちゃんを抱くお母さんは、まだ立ったまま子をあやしている。
気丈な人に違いない。
電車が停まろうが、満員で息苦しかろうが、それがなんであろう。
子の重みをしかと受け止め、母として揺らがない。
それからまもなくして、電車は無事に大阪駅のホームに入った。
子を抱く母は降り、体調不良の女性もそこで下車した。
密閉されたような場から解放されて味わう秋の空気はとても清々しいものであっただろう。
5
明けて月曜日。
前日に引き続きこの日も朝7時過ぎに人身事故が発生した。
JR神戸線の住吉駅で男女二人が電車にはねられたという。
大阪を境にして西側を神戸線、東側を京都線と言う。
呼称が異なるだけで、実際は長く東西に繋がった一本道みたいなものである。
だからどこかで事故があれば支流となる宝塚線や東西線も含めて影響は広範囲に及ぶ。
月曜朝のラッシュ時の事故であるから、途方も無いほど多くの人が足止めを食らったに違いない。
人が亡くなったことを厳粛に受け止めその重さを体感することはやぶさかではないにしても、また死者を鞭打つ気はさらさらないにしても、被った迷惑に怒気隠せないというのが多くの人の正直なところだろう。
それにまた、事後も無残であるはずだ。
そのような遺体を目にしなければならない者の気持ちは一顧だにされなかったのだろうか。
あるいは、そうなることをあえて望んだのだろうか。
であれば、その死は社会に対する意趣返しでもあると捉えるべきことなのかもしれない。
電車は社会の縮図。
電車の人身事故が社会の有り様を鮮明に物語る。
そう考えれば、社会の構成員である一人一人がその代償を負うのは否も応もないことなのであろう。