毎年一月、家内と伊勢を訪れる。
いつの間にやら恒例行事となった。
土曜日の朝、鶴橋駅で伊勢志摩ライナーを待った。
ひとつ前の特急が前に停車していて、中を歩く年配の女性に目がとまった。
白髪の様子から背格好まで母に瓜二つである。
その女性が立ち止まり、座席番号を確認する。
それでこちらの方に視線が向いて、わたしからすれば目が合ったように思えた。
ああ、久しぶり。
なんでここにいてるん!
そんな風に声を掛け合えればどれだけいいだろう。
そう思うがしかし、その女性がわたしの母である訳がなかった。
じっと視線を注ぐわたしに気づくことなく女性は座席に腰をおろし、まもなくその車両はホームの向こうへと静かに消えていった。
隣で家内も同じようにその女性を注視していた。
母が生きていれば。
夫婦で思うことは同じだった。
やはりわたしたちは親孝行が足りなかった。
寒いほどに空気が澄んで、心は清らかになる。
外宮に一歩踏み入った途端、そう思えた。
まばらな人波について歩き、各所で手を合わせ頭を下げ、タクシーに乗って今度は内宮に向かった。
土曜日にしては人が少ない。
タクシーの運転手はそう言った。
通常ならここら一帯が人とクルマで埋め尽くされて、駐車場に入るだけで二時間かかる。
混み合うときなら民間駐車場の値段は二千円だが、いま表示されている額は五百円。
なるほどこれもひとつの経済指標と言え、タクシーの運転手の解説によってコロナ禍の影響の深刻さがとてもよく理解できた。
内宮も人はまばらだった。
だから一人で参拝する高齢女性の姿があれば自ずと目にとまった。
いずれも健脚からほど遠く、足取りは覚束ない。
そんな様子を見て心もとないと最初は感じたが、やがて彼女らの思いの強さがひしと伝わってきた。
ご自分のためというよりお子さんやお孫さんのことを思ってここを訪れているに違いなく、そうであれば、踏み出す一歩一歩に宿っているのは親心以外の何ものでもなかった。
その力強さに比べれば、わたしたちの方こそ親として新米でその歩みは頼りなくよちよち歩きというレベルと言う他なかった。
内宮域内の空気は凛としてどこまでも澄み渡り、だから涙腺が緩むのか、目に涙をうっすらと浮かべつつわたしたちはそんなおばあさんらの姿を目に焼き付けた。
いつまでと決めることなく、この恒例行事はただただずっと続くことになるだろう。