君たちも超論理のことは聞いた事があるだろう。
大阪で生活しているとその一種にしょっちゅう出くわすので珍しくとも何ともない。
ちょっと柄の悪いお兄さんやなんかが、やや無理のある話を、知恵の輪を力任せにブチ外すような芸当で通してしまう。
キャンディーズ風におかしくって涙が出そうといった感じで相手が唖然としていても、お兄さんはそのように堅く信じているので微動だにしないどころかますます主張を強め、それを呑ませてしまう。
理屈も何もあったもんじゃないけれど、信じる者は信じており、それに駆動される。
我こそはオスマントルコ最強戦士の末裔と意気軒高ピッチを駆け回るサッカー選手、大阪出身だからと上京した途端饒舌になる孤独な大学生、などなど。
強度の差はあれ超論理とはそのようなもののことである。
いまや論理的であることが価値として崇められる。
だから超論理的な話を耳にすれば違和感を覚えることがあっても当然の反応だ。
しかし、内面に目を凝らしつぶさに見れば、こういった超論理的な言説が山ほど溢れていることにも気付くことだろう。
それどころか、内的世界の基盤を為しそれを強化しているのは論理ではなくむしろ超論理の方であるとも感づくに違いない。
人がかしづく何だか分からないような意味の泉は超論理の側から湧き出してくる。
理詰めで意欲や元気が湧く訳ではないのである。
そのような役割と存在意義を理解した上で、信念や信条や世界観といった類似の言葉であてがうのではなく、論理との対比を明瞭に意識するためにも、超論理と包括的に呼ぶことにしよう。
誤解してはならないが、宗教や哲学といったものはあれはあれで別種の論理の体系を構築しており、超論理とは区別しておきたい。
しかし、それらと同様に本質的には内面に属するものなので、あまり表立っておおっぴらに吹聴すべきものではないだろう。
我が師ゾロメゾフスキー教授によれば、ネット社会の進展により、現代はますます鳥獣戯画社会の度合いを深めている。
おかしな事を宣えば即座、鳥獣戯画のカエルくんみたいに戯画化された上で、年代物の貴重な挿絵のように未来永劫コケにされ続けかねない。
針のむしろは75日と昔は相場が決まっていたが、いまではそれが気の遠くなる年月に変わってしまった。
確信犯的に超論理だと分かった上で活かすことが大事だ。
例えば、先祖が守ってくれる、という超論理。
先祖なんてみんな死んでるのにどうやってボクを守るのさとか、その先祖は1秒で地球を7週半まわり鉄をも見通すなどと虚像を編み上げるとか、そのようにその先を考えるのではなく、虚心に漠然とそのイメージがもたらすプラスの作用だけを享受する、といったようなことである。
そのような超論理をバックボーンにして、困難や苦しい局面をくぐり抜け、あるいは喜びを分かち合い、人は永きにわたりその系譜を継いできたのだ。
その正否を云々するよりも、一旦は素直にそのままのものとして受け継ぐことも大切なことであろう。
そして、君たちもその超論理の恩恵にもあずかっている。
どう見ても不器量で欠点だらけの君たちを、脇目も振らず髪振り乱し育て、その世話に明け暮れ献身してきた母なる存在は超論理の最たるものである。
自分のことは二の次三の次、子に最善最上のものを与え、自らの喜びよりも子の喜びを優先するような、お腹が空いていても子に食べさせるために母ちゃんはお腹いっぱいだからあんたが食べなさいと言わせてしまうみたいな、子の先々の晴れ姿を思えば今の苦労もへっちゃらどころか楽しくさえあるといった、柄の悪いお兄さんをもものともしない、あの極限の活性を生み出す作用は超論理の働きという他ない。
そして母なるものの超論理にも系譜があって、それは場合によっては強化されていく。
母の母その母の母と、幾世代にも渡って遠く受け継がれてきた、とても男には太刀打ちできない強靭な精神性が連なってきているのである。
特に君たちにつながる母の系譜は、娘さん風情など消し飛ぶ、それはもう最強の布陣である。
幾重にも重なり力強さ増す母なるもの達がたどり着いたベストの母に手厚く面倒みてもらっているのだ。
君たちが強く逞しくなるのも当然だろう。
そして、今度はその系譜を思い、男子としての優しさをもって、母を労う番がやってくるだろう。
今日は母の誕生日、各自事務所に集結し寿司でも食べに行こう。
帰りは運転するので、上方温泉一休のお湯をご紹介させていただくこととしよう。