天然の域を逸脱したような色に明け方の空が染まっている。
紫がかって、ところどころにゴールドが混ざるド派手な色合い。
台風が接近し、まもなく大荒れとなるのだろう。
週明け月曜日、始発電車は混み合っている。
仕事したくていてもたってもいられないという精気のようなものは車内に微塵も感じられない。
重苦しいような、塞ぎこんだ表情を数々運んで電車は大阪へと向かう。
途中の駅で初老の男性が降りる。
その際、気持よく寝入っている、これまた初老の男を揺り起こす。
同僚なのであろう。
同じ駅で降りるのだろうか、と見ていると起こした方は寝入っている方にじゃあねとお別れの挨拶をしただけだった。
まるで少年らがするようなやりとりだ。
寝ていた方は何が何だか分からないといった表情で目をパチクリさせまた寝入った。
夜勤明けの疲労感が全身に漂っている。
わざわざ起こさず寝かせてあげればいいものをと思うが、男同士、初老になっても少年の頃のようなやりとりを省略することはできないものなのだろう。
事務所に入って、まずはコーヒーをいれる。
月曜初っ端から突っ走ることはない。
ぼちぼちの始動で十分だ。
新聞をめくる。
この日も朝日新聞の「小さないのち」のページに目が留まった。
今朝は誤嚥について取り扱われている。
ほんとうにお気の毒で言葉も出ない。
防ぐことは簡単なことではなく、いつ誰の身に降り掛かったっておかしくない。
たまたま我が家は難を免れたというだけのことに過ぎない。
振り返れば、我が家やんちゃくれの男子二人、小さな頃から生傷の絶えたことがない。
無事育って今のガタイに至ったのは、紙一重のような運の連なりと守り神としての役目を果たした家内のおかげだと言うしかない。
家内は目を離さずいつもそばにいた。
単に庇護するのではなく、渦中に放り込んだうえで見守った。
どのようなことが起こり得るのか、あらゆるリスクを考え尽くす心配性気質は庇護者にとって不可欠の素養であった。
世には我が事ばかりが先に来て、子どものことなど後回しといったお母さんもあるという。
が、うちは全くその正反対。
子が最優先であって、子らのため喜んで脇役となり黒衣に徹する母親であった。
見事なまでの一貫性と安定感をもって、そばにいた。
そういった役割を果たした母があったと、君たちは知っておかねばならないだろう。
目立って華やかチヤホヤされて、といったことの対極。
地味であって退屈で単調、愛情なければ面白みなどどこにもないような役回りと言えるだろう。
色で言うなら、いぶし銀。
なんて渋目な母なのだろう。
そんな彼女のブログがいま関心持たれ好評得ている。
時間をかけて静か培った何かがそこにあってこそ、読んで味わい深い内容となり得ているのであろう。