KORANIKATARU

子らに語る時々日記

最近話題の漫画を読む


先週、買い物終えた家内と待ち合わせし、阿倍野の正宗屋に向かった。
しかしなんということだろう、シャッターが下り店は休みだった。

いつだって正宗屋で飲めると思ったら大間違い。
そうは問屋が卸さないということである。

やむなく地下街に降り、類似の店を探す。
赤のれんのカウンターに空席を見つけることができた。
何とか当初の目的であった下町風情飲みを体験することができたのではあるが、こだわればやはり正宗屋がいい。

小椋佳の歌詞みたいだが、ただ正宗屋がいい。


JR甲子園口と阪神甲子園が異なる以上に、JR尼崎と阪神尼崎は様相を異にする。

先週土曜の午後7時、家内は既に到着し駅で待っているというが見当たらない。
なぜ見当たらないのか、電話で真相に気付く。
待ち合わせの場所は、JR尼崎ではなく阪神尼崎でなければならないのだ。

携帯電話がなければともに尼崎で待ちぼうけとなったことだろう。
待てど暮せど、来る日も来る日も待ち人は来ず、ここは本当に尼崎駅なのだろうかと通りすがりの過客に問い、しかしやはり尼崎駅に間違いなく、理由も解らぬままただただ待つという消耗に耐えつつも昔日の思い出がすべて恨み辛みに変貌してゆくままに為すすべなく遂にはうずくまって座り込む、といったことになったとしても不思議ではない。

タクシーですぐ阪神尼崎の和食のさととがんこ寿司の間辺りに向かうよう伝え、電話を切った。

この日も志津鮨は素晴らしかった。
小鉢に盛られた一品一品は作品ともいうべきレベルであり、大将が語るそれらに込められた物語や料理や素材についての蘊蓄に耳傾けながらゆっくりと味わってゆく。

わいわいがやがや食べるのもいいが、目の前の一品に真摯向かい合いその奥深さを推し量りつつじんわり味わう食事もこれまたいい。

特に、親密に静か食事するなら後者だろう。
この日この時間、鷲尾夫妻らと過ごした時間は、丹精込められた食事と相まって色合い豊かなものとなった。
いやはや、実にいい食事であった。


家内がリアルタイムで送られてくる写メを見せてくれる。
義理の妹がハワイ、義理の弟が沖縄の旅を今まさに満喫している。

羨ましい。

のべつまくなし仕事する毎日である。
全然つらくもないし、苦しいわけでもないけれど、飛行機を見上げると旅に恋い焦がれるみたいに胸がキュンとなる。

しばらく正念場が続く。
間もなく決着つけて、また旅に出なければならない。

家族の食い扶持稼ぎ学校へやり最低限の備えも怠らず、そして最期枯れ果てるまでには自分にも水をやる。
その瞬間を想像するだけでも、歓喜がせり上がってくる。
この感じがちょうどいいのかもしれない。

もしかしたら旅に出た途端、あにはからんや仕事したいと切望するかもしれないほど、この状態に適応してしまっているとも言える。
口触り最悪で毛むくじゃら、棘まである分厚く硬い外皮をかみ砕くと、中に実がある。
旅の方が美味ではあるけれど、仕事の果実もほのかに甘い。


漫画を買ったのは、子らにギャグ漫画日和やオバケのQ太郎や、さいとうたかおのサバイバルを買って以来のことだろう。
本屋で「進撃の巨人」を1巻から10巻まで買った。

藤井聡氏がラジオで紹介していて読みたくなったのであった。

基本類型に収まらない常識外れな展開で物語が進むのだという。
主人公の母はいともあっさりと巨人に食われ、巨人を撃退すべく結集された精鋭チームはあっけなく惨殺される。

壁の中で人が暮らす、という設定である。
壁の向うには人を喰う巨人がいる。
隣接するはずのその凄まじい現実は、危機感を喚起すべきものであるはずなのに、巨大な壁の存在によって希薄化される。

しかし壁を乗り越える大巨人が出現し、事態が急迫する。
壁の向うのリアルに晒され、危機に免疫を失った人々が、その現実と対峙せねばならなくなる。

壁や巨人といったメタファーで語られるものは、我らが置かれた現在そのものと読み取ることができる。
そこに立ち向かう思想は、人間の強靭化そのものである。
危機を見据えることが強靭化そのものであり、目を閉じ耳を塞ぐと、とんでもない被害のリスクに無防備になるだけでなく、精神が退廃し腐臭を放つ。

そのような問題提起をはらむ漫画だという。

それで関心そそられ買ったのであった。

仕事を終えた深夜、風呂に半身つかって漫画のページを繰る。

私自身も壁の中にあるのだろう。
幸福な毎日である。