1
台風が通り過ぎ灰色の分厚い雲は一斉に退散した。
ツヤツヤの青空が山の稜線の向こう側まで広がって、所々浮かぶ白いスジ雲が絵にスプレーで噴霧された紋様のように見える。
湿気抜けた涼風が四方から公園に吹き込み、元気溌剌といった風に樹木が枝葉躍動させて雨露をはじく。
まだ明るい夕刻の時間、三階の部屋からひとり黙って眼下の公園をじっと見渡す。
ジョン・トラボルタ主演の名作「フェノミナン」では、こうして風に揺れる美しい樹々の映像が随所に挿入されていた。
記憶と眼前のシーンがシンクロし始め、ただここに在ることが嬉しいといったウキウキ感が込み上がってくる。
この日、45歳となった。
この日記を書き始めて4回目の誕生日となる。
これまでの誕生日と異なり、ここを節目にさあ頑張ろうという気負いや決意のようなものが何もない。
濃厚な中心にぐんぐん向かって行こうという気が全くない。
いい具合に肩の力が抜け、流れに抗わず波のまにま漂うみたいにゆっくり進めばいい、といった心境に近い。
2
今ではすっかり見慣れてしまった真向かいの公園であるが、元はと言えば縁もゆかりもない土地の、羨望するかのような存在であった。
たまたま通りかかっておむつしていた当時の長男、まだバギーに乗っていた頃の二男を遊ばせたことがあった。
大阪ではお見かけすることのない公園という印象だった。
清潔で、平和そのもの、心穏やかとなる。
場違いな所に迷い込んだという違和感を覚えつつ、ため息ついて周辺を見渡した。
なるほど、場違い、見れば見るほど私たちは場違いだった。
3
その公園の目の前に居を構えることとなったのは、できすぎた話であり何かの冗談のようにさえ思える。
雨がすっかり上がり、方々から公園に子供たちが集ってくる。
まだ明るい、であればいつまでも遊んでいたい、子供なら誰だってそうだろう。
陽が差して水たまりがキラキラ光る。
ここを住処とした当初の感動や満足感は薄れてしまった。
ここにいることが今では何でもない「当たり前」となった。
千代に八千代に長らえる感情など存在しないものなのであろう。
満たされたはずの心のうち何かがゆっくりと萎み、いつの間にか余白が生まれる。
いくら食べてもしばらくすればお腹が減るように、心も減る、ということのようである。
どれだけ満たされたようが、いずれその満足感は徐々に色を失い余白化していくことになる。
4
振り返れば、いくらでも「余白化」したものを数えることができる。
例えば、いま生業にしている資格もそうである。
ほんの数ヶ月という短期ではあったが、どうしても必要だと仕事のかたわら火を噴くほどの集中力で取り組んだ。
それはそれは本気で取り組んだので独学ではあったが一発合格であるし結果は最上位レベルの高得点であった。
しかし、今、その資格を有する自身のことが「当たり前」のこととなった。
いくらちっぽけな資格とは言えこれで暮らしているのだから諸手あげて万々歳のはずが、罰当たりなことに次第次第、何かが萎み余白が生まれ始める。
願望は実現しても、色あせていく。
実現すれば、終わる。
45歳にもなれば、願望の実現よりも、その過程にこそ幸福が宿っていると深く理解できる。
そして、幸福は、慌てれば慌てるほど急ぎ足で逃げていく。
ゆっくり少しずつ近づく、これに勝るアプローチはないだろう。
ゆるりゆるり、と次に進む。
これが一番の幸福道、そう確信したとき、食事の用意ができたと階下から家内の声が聞こえた。