KORANIKATARU

子らに語る時々日記

助手席に置いた新聞の見出しが胸をえぐる。


2月2日未明、事務所へクルマを走らせる途上、コンビニでコーヒーを買い、新聞を4紙買った。

助手席に置き、前日明け方報じられた後藤さん殺害についての見出しに時折目をやりながら、運転する。

十日間にも渡ってじらされ、そしてそれに対し日本は翻弄されるばかりであり為す術がなかった。

小さいころ、我々が繰り返し見てきたヒーロー物など絵空事。
世界は全く異なる筋書きで動いている。

私達が胸高ぶらせて真似した正義のヒーロー達などどこにもいない。

未明の街は静まり返り、言葉だけは猛々しい首相の場違い、勘違いがただただ薄ら寒く思い出され、寂寥が底なしとなっていく。


週末、家内と芦屋の町を歩きアーボンで食事した。

手間ひまかけて凝りに凝った一品ずつを、おもてなしの行き届いた場で、味わった。

豊かで平和な時間であった。
何と豊かで平和な時間であったことだろう。


もしかしたら、そんな時間帯であったのだろうか。
そのような団欒の時間と同時並行で、各地各所で人が殺され続けている、というのが世の真実であるということなのかもしれない。

いよいよ最期と覚悟し命乞いすることもなく、しかしそれでも生き延びることの可能性を強く信じ続けていたに違いない尊い精神に、手がかけられた。

その無念を思えば、ただただ沈痛、沈黙せざるを得ない。
言葉など出る幕もない。

日本は為す術なく、指をくわえて成り行きを見守るばかりであり、そして最悪の結果をこよみよがしに見せつけられた。

そして、このような事態において、目立つことだけを生きるよすがとするような下品なテレビタレントが後藤さんは自決すべきだったと発言し、信じがたいことにそにれ賛同する声が無数に上がったというのである。

まさに世も末、日本が末世にあることを世界に知らしめることになった。

死に際してさえ、自己責任だの迷惑だのといった淡白無機質で無思慮な言葉で事をあっさり片付けるような、他者の不遇への厳粛と共感を持ち合わせない人心の蔓延に戦慄を感じる。


日本が謳う平和的理念が神通力持つような世ではないこと、日本に正義を体現するヒーローはおらず、このような理不尽に対してさえ、何一つアクションが起こせず、
自力では何もできないことが明るみになった。

同時に、人の縁がますます薄まりあらゆることが他人事といった酷薄な社会と化しつつある日本の姿も浮き彫りとなった。

彼らが言うとおり、今後も日本人は殺され続けるのだろうか。

そして、そうであってもあくまでも日本は平和主義の旗を振り続け、凄味ある一億総平和主義者の国を目指すのか、もしくは、平和主義はあくまで理想だ方便だと時と場合を使い分け、自らはなるたけ手を汚さず、裏でアメリカに成敗してくれと頼む程度の欺瞞までは許容するのか、はたまたこれを機に、軍事的な在り方を問いなおすことになるのか。

それを突き詰めて考えざるを得ない状況に日本は今回直面してしまった。

次にこんなことが起こってから考えようではもはや遅すぎるということだけは確かなことであろう。