KORANIKATARU

子らに語る時々日記

不用意に心の空虚を開陳してしまう人々


仕事帰り、ラグビーの練習を終えた長男と合流する。
がんこ寿司の座敷で向き合う。

店に入った当初はテーブル席に案内された。
フロアスペースの端から順々に埋めていくといった自動作業で席が充てがわれた。

どこかの行楽帰りが大勢を占めているのか、土と汗の匂いを感じる。
隣席との距離は狭く、すし屋にしても、すし詰めに過ぎる。
すでに酒が入って上機嫌といった客らの声が大きく落ち着かない。

目を移すと手付かずで無人の座敷スペースが見えた。
座敷にしてもらえないかと店員に告げ、場所を移動した。

もう梅雨は明けるのだろう。
カンカン照りの一日であった。

座敷にあぐらかいて、瓶ビールを手酌で飲みつつ息子と寿司をつつく。

他愛ない日常の会話をしつつ、ふと、今年の数学五輪、日本は何位だったと思う。
そう聞いてみる。

先日のニュースで結果を知って私は先入観を正された。
長男にも参考知識として教えておかねばならない。

トロなどお気に入りのネタから先に手をつけつつ長男が言う。

一位?

首を振る。
日本が一位になったことなど後にも先にもあった試しがない。

一位はアメリカ。
続いて、二位中国、三位韓国、四位北朝鮮、五位ベトナムである。

長男は質問の狙いを見抜いて笑う。
もしかして、日本ってボロ負けなん?

頷いて、答えを教える。
日本は二十二位だった。

傑出した超精鋭の高校生らが挑むのであるから、世界トップ級であることは間違いないと長男同様、私も思い込んでいた。

今回は筑駒、開成、灘の生徒計6名が参加している。
彼らと机並べたことがある者からすれば、名がとどろくほどの超弩級の天才達であるに違いない。

昔なつかしの「リングにかけろ」で例えれば、剣崎と高嶺と河合と志那虎と香取のような顔ぶれみたいなものである。

アメリカや中国などの超大国の後塵を拝すのはやむを得ないとしても、韓国や北朝鮮のような人口の少ない国にも引けをとっているなど俄には信じがたい。

調べると、過去25年、中国、アメリカ、韓国、ロシアがベストファイブの常連で、そこに他国が食い込むという傾向が見られた。

日本がベストファイブに入ったのは過去2回のみ。
2014年に5位で、2009年の2位が最高の結果である。

日本においては群を抜くほどに賢い連中が立ち向かっても世界の壁は厚く、そのレベルで伍して渡り合った日本人は片手に数えるほどもない。


日本、あかんやん、と長男が言う。

そう決めるのは拙速だろう。
これだけ突出したレベルの次元の話をもって一般論を導き出すのは、飛躍にすぎる。

ノーベル賞受賞者の輩出が少ないから東大はダメだといったお馬鹿浅薄な話と同じことである。

ただ時系列で眺めても長年に渡って劣勢の傾向が読み取れるから、「もしかしたら、あかんかもね」という仮説の素は汲み取れるかもしれない。

資源のない島国日本、人が資源だ、学力的には他国の追随を許さない、そのような自負を日本人なら有していたであろうが、昨今は平均層でも徐々に劣位に追いやられ、超上位層も昔に比べ苦戦を余儀なくされる、もしかしたら、日本は負けていく潮目にあるのかもね、と、あくまで「かもね」が言えるだけのことである。

寿司だけでなく、蕎麦もあるし天ぷらも串かつも、がんこでは世界どこに出しても恥ずかしくない日本食が何でも揃う。
私は瓶ビールの追加を頼み、長男は一体誰が食うのだというほどに食べ物を注文していく。

話題を徐々に移していく。

先日、辛抱さんのニュースで知ったが、抜きん出ていたはずの日本の自動車会社の自動運転の技術が、いまはもうドイツに追い抜かされているらしい。

クルマと言えば日本最後の切り札、お家芸。
そこで負けるのであれば、他は推して知るべし。

世界は広く、日本は口ほどのものでもないの「かもね」と心配になってくる。

ちょうど、今年の中一から大学入試制度が変わることになる。

佐藤優さんの「いまを生きる階級論」(新潮社)に日本の教育に関する印象的な記述が数々見られる。

教育にかかる経済的負担が実質的には増大し続け、現世代が受けてきたのと同レベルの教育を子ども世代が享受することは難しくなっている。
いまや明治以降初めて「教育の右肩下がり」が現実のものとなっている。

事態は深刻であるが無為無策なまま高等教育の機会の平等はますます失われ、次世代を担うはずの若者の知的体力はみるみる衰微していく流れにある。

そもそも現政権の総理も官房長官も偏差値が低く、彼らは教育の重要性や必要性を理解していないどころか、エリートの再生産自体を疎んじているきらいまである。

総理などエスカレータ式で大学に入っているから受験勉強を経ていない。
正確な知識を地道に蓄え一発勝負で数年がかりの努力の成否を問われるという差し迫った経験をしていない。

「知力が曖昧」な者が日本最高位のエリートの位置に座っているのであるから、世界に伍するための教育改革など実現困難な話だ。

要約すれば、そのようになるだろうか。

非常に説得力ある指摘であると思えた。
日本が抱える教育についての先行きの不安の源はここだと、明確に指差されたようなものである。

お上はお上で、国は国。
各個人としては別途「教育」を自助努力の範疇に属する喫緊の課題として捉え、各自めいめい始めなければならないということであろう。


そうそう、話を戻して注意しておかねばならないが、さっきみたいに「日本、あかんやん」など一概に言えないことを断定的に決めつけた喋り方をすると、瞬時に阿呆だと見抜かれるから注意した方がいい。

特異な事例や、例外的な話をもって、それを一挙に敷衍、さも全部がそうであるといった短絡的な決めつけをして、なあそうだろと同意求めて強弁する人が絶えない。

そういう人になってはならないし、そういう話を聞かされる側にまわった場合は、傾聴する価値も話し合う意義もないので、その結論は受け取らず保留にし、結論に至るまでの誤謬ある行間について、その飛躍や曲解、ほつれもつれ、偏見などをやんわりと一つ一つ質問調で正すに留めるのがいい。

いくらその主張が思慮に欠けた皮相な見解に過ぎず、論拠も薄弱、論理的に成り立ち得ないと見受けられても、いきなり結論を俎上に上げて一刀両断にしたり持論をまくし立てたりするのでは慎みがない。

相手を傷けてしまいかねず、根に持たれかねず、その大人げのない対応によって周囲から眉をひそめられれば自分が損をすることになる。

ひとつの意見として礼節と品位をもって相手の話をさらりと拝聴しつつ、しかし同意は巧みに避けて、一段上に立って超然とやり過ごす。

そのように「かわす」という仕方を基本姿勢とすべきだろう。


論理的に破綻している見解を譲歩の余地なく強く主張する人については、何らかの止むに止まれぬ事情があって強弁せざるを得ない、または精神の均衡を保つためそう言わざるを得ないといった、何か切実な問題が横たわっていると見立ててほぼ間違いない。

この場合、相手は端から、双方の立場を尊重したり利害を勘案したりして、実りあって意義ある帰結を導きだそうなど考えていない。

要は、信念の表明のようなものである。

信念であるから、いくら稚拙であっても破綻していても、当人にとってはそれが必要なのであり確信的に「正しい」となる。

そのような言葉遣いに以後、何度も出合うであろう。
しかし、取り合わず聞き流し、背後の本質に目を凝らし、他山の石としよう。

パンチを繰り出せば、ガードが空く。
それと同じで、不用意に発言すれば、パンチは当たらず、心の隙を見透かされるだけとなる。

男子として、得策ではない。

そこまで話し、私は今日5本目となるビールを注文した。
夏である。やたらとビールが美味い。
やはりビールは瓶に限る。

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