KORANIKATARU

子らに語る時々日記

多くはその手がかりにすら至らない。


梅雨も明けたので映画「雨あがる」を見る。

どしゃ降りの雨のシーンから映画が始まる。
旅の浪人が川岸に立つ。

川は増水し氾濫寸前だ。
当分の間、渡れそうにない。

川を渡る旅人たちは足止めを食って、川岸の宿はすし詰めが続く。
その数日間が描かれる。

浪人を演じる寺尾聡が実にいい。

貧しい市井の民に対して腰低く接し、腰は低いが剣の腕は超一流、賭け試合で得た金で飯や酒を振る舞って彼らをもてなす。

声が低く柔らかく、剣を使うシーンでは一切まばたきしない。
朴訥であるが並みの者ではない、浪人を演じるのにまさに適役。

ともに旅する奥方は、浪人のよき理解者だ。
縫い仕事などしつつ宿で夫の帰りを待ち、賭け試合についても、何のために夫がそうしているのかよく心得ているのでそっと見守りとやかく言わない。

人を押しのけず、その席を奪わず、静か誰かに寄り添うような優しさを持つ夫を、奥方は心から信頼している。

日本の山や緑の匂い、雨の質感、虫や鳥の音など、風景が柔らかに描かれ、そこに登場人物の心遣いや機微がとてもよく馴染む。

日本の風光明媚と日本人の心の美徳を情感たっぷりに味わえる秀作である。


しかし、そんな素晴らしい奥方であるが、ややファンタジーにすぎると感じた向きも少なくないであろう。

なにせ夫は仕官先のない浪人である。
雨が降り続き、旅宿は貧しい者に溢れている。

通常の景色なら居住まいよく夫を迎えるどころか、愚痴は一つや二つでは済まず、雷警報発令必至の様相、耳をつんざくガミガミが止まないはずである。

いくら温厚な人柄の男子であっても、そのような金切り声は脳の原始的な部分に直接作用し、気持ちは荒れて、下等極まりない野生的な反応を抑え難い。
葛藤のなか、ムンクの叫びのごとく両手で耳をふさぎ、いっそ死ねればと煩悶し、のたうち回る、そうなるのが必定と思える。

男女はそもそも噛み合わず、きっかけ一つで、互いを謗って憎み合う。
めったなことでは適合しない臓器をくっつけるようなものであり、目も当てられない、犬も喰わない拒絶が起こるのは、世間見渡せば回避できないことのように思える。

だから、男女をつなぐにはその上に、宗教観が来ざるを得ず、社会的慣習やしがらみが来なくてはならず、金に切れ目がきてはならず、かすがいがなければならない。
そうでなければ、掴み合って罵り合って互いの顔に唾するほどに反目し合うだけとなる。
世間はそんな話で溢れかえっている。

だから、「主人在宅ストレス症候群」や「帰宅拒否症候群」といった心的疾患は何も特殊な病気という訳ではなく、男女の普遍を言い換えただけのものに過ぎないと言えるだろう。

映画「雨あがる」の数日間において、二人の関係は醜悪に向かわず、夫は奥方に気遣いを絶やさず奥方は夫に全幅の信頼を寄せる、という平和で幸福な均衡が続いていた。
一体そのためには何が必要なのだろう。
誰がどうであればいいのだろう。

多くがその答えを求め、しかし、その手がかりにすら至らない。

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