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塩元帥と言えば我が家お気に入りのラーメン店であるが、近所では尼崎にしかなく、しかも週末は非常に混んでいるため滅多に足を運ばない。
家族四人で尼崎店を訪れたのは、数年前のことであった。
私が訪れたのはその一度きり。
二度目は混んでいて断念し、以来足が遠のいている。
私以外の家族にしても訪れるのはせいぜい学校行事などで平日が休みとなった時くらいしかない。
もっぱら家内と二男の組み合わせとなる。
今年の春のことであった。
長男の学校へ寄って帰る際、法隆寺のインター近くにある塩元帥が目に入った。
迷いなく飛び込んで、久々の塩元帥にありつくことができた。
長男と向い合って美味い美味いと食べたのがつい昨日のことのようである。
二男とは数々の名ラーメン店で共演してきたが塩元帥で2人きりで食べたことはまだない。
昨日、長男の学校は昼までだった。
今日、明日と二班に分かれてアメリカへ発つ。
渡米に備え早い下校となったのだった。
それで家内は長男を伴い尼崎の塩元帥へと向かった。
二男とはしばしば行くけれど長男とはまれなことであった。
2
家族が4人いれば、4人でいるとき、3人でいるとき、2人でいるとき、1人でいるとき、と延べにして15通りのシーンによって日常が構成される。
単身であれば後にも先にも1通り。
2人であれば3通り。
3人家族であれば7通り。
5人になるとなんと31通りもの場面から成ることになる。
登場人物が日常を綾なす。
数多ければ多いほどその彩りはいや増しとなる。
シンプルな構成も渋く質実であって悪くはないけれど、様々に交叉する妙のある方が更に心楽しく趣深いものであろう。
例えばこの夜。
食後のテーブルで私は二男と向かい合っている。
二男は宿題をし、時折手を休め学校の先生に怒られた話などをする。
リビングには二男がチョイスした洋楽がかかっているが、それを私が昭和の懐メロのラインナップに変える。
二男は、これ聴いたことがあると耳を澄ませる。
二人でしばらく耳を澄ませる。
長男は階下でひとり渡米の支度をし家内は明日の食事のための買い物に出かけている。
そのような場面に、家内と長男が一緒にラーメン食べたというその日の昼の光景が折り重なる。
過ぎ去っていく数々の場面がコラージュのようにひとつところに寄り集まり並置されていく。
それら断片のすべてが家族史を形作る不可欠なピースとなる。
3
渡米前日となる今日火曜日。
長男の友人8人が我が家に集結するという。
誰も彼もいずれ劣らぬ精鋭たち、個性豊かで魅力的な少年たちだ。
女子からすれば、よりどりみどり、たわわ実った果実が鈴なり並び、まさに喉が鳴るというものであろう。
家内はその世話で忙しくなるであろうが、振り返ったとき、きわだって懐かしい時間となるに違いない。
家族の連なりに友人らの輪も重なり合って交叉の妙は更にますます多様で多彩なものとなる。
彼らにとって一生残るほどに思い出深い旅が明日から始まる。
そのゼロ地点に我が家がくるなど誉れなことである。