1
たまに餃子が食べたくなる。
夕食いらぬと家内にメールし野田阪神の北京飯店に向かった。
カウンターに腰掛け焼き餃子とビールを注文する。
薬局帰りだというおじさんが酢豚つまむ手を休めてカウンター越し、店主とクスリの効き目について話し込んでいる。
テーブル席はラグビー部員と思しき高校生らに占拠されている。
ラーメンやらチャーハンやらをがっつき若気の旺盛な食欲を全開にしている。
流れる曲はアリスのチャンピオン。
給仕する兄ちゃんがそれを口ずさみ時に口笛を吹く。
わいわいがやがやの賑わいのバリアに包まれ、私は一人静かにそこで過ごす。
長男の留学先に送るスナップ写真10枚をどれにしようか。
家内とメールでやりとりしながらグラスを口に運び餃子に向かって箸を使う。
2
一人でいることが全く苦にならない。
部屋に一人でいると頭がぼんやりとしてきて退屈するが、不思議なもので、一歩でも外にでれば一人であっても何やら思考が盛んになってその活況に飽きることがない。
活性を増したとき脳がホタルの尾部のように点灯するなら、電車でも風呂でも道端でも一人でいるとき頭部に帯びる光は明度をひときわ増しているに違いない。
お客先で面談していたり、誰かと話していたりといった場合には、慣れた回路を使ってその場に対応しているだけのようなものであって、案外、活性度はそれほど高くないだろう。
一人、放たれた時、何かが活発に働き始める。
そのように思う。
「電波」は一人のときにやってくる。
このように言えば、スピリチュアルの人はわたしもそうだと言うかもしれず、精神科医はクスリを処方してくれるのかもしれない。
3
家に帰る。
子らは各々自室で勉強中だ。
リビングでひとり「オン・ザ・ハイウェイ」というイギリス映画を見る。
映しだされる登場人物は一人だけ。
ハイウェイをクルマが走り、電話のやりとりだけでストーリーが進む。
映画を見つつ、クルマの身体性について考える。
ガンダムのモビルスーツに身を包むような感覚に例えられるだろうか。
クルマに乗ると身体感に変化が生じ、脳波が変わって、単に一人なのではなく、更に研ぎ澄ましたような、一人きり、という覚醒が訪れる。
映画では電話によって様々なやりとりが交わされるが、これはストーリーを表出させる道具として電話が必要なだけであって、クルマのなかの静謐においては電話などかかってこなくても、多かれ少なかれ主人公と同様、思考渦巻く状態となる。
時にはクルマでなくても、そのような感覚になる場合がある。
暗い夜。
一本道。
あたりに人はない。
そのような道を歩いていると、身体感が薄れ何もない空間にただ「思念」だけが運ばれているといった感覚になる。
オン・ザ・ハイウェイの主人公は呪縛のなかにあって、もはや選択の余地のない道を突き進む。
この映画は、我々皆が有する思念の道行きを可視化したものと言えそうだ。
様々なものが交錯はするけれど、要は孤独な一本道ということなのであろう。