1
日曜午後、事務所界隈を軽く走る。
ポカポカ陽気である。
耳にするのはニッポン放送の「ズームそこまで言うか」。
数あるポッドキャストの番組のなかいつも決まってそれを最初に聞く。
上岡龍太郎さんが引退した後、いまこの国で、聞かせる喋りにおいて辛坊治郎さんの右に出る者はないだろう。
軽妙洒脱な話しぶりに聞き入って北港方面へとひた走る。
福島原発のメルトダウンの話になって辛抱さんの口調が一変した。
事故当時、メルトダウンは避けられず、事故の深刻度も最高レベルの7に達することは政府も東電も分かっていたはずだ。
しかし彼らはそれを公にしなかった。
あろうことかレベル3と言い宣い、差し迫る状況を小さなことであるかのように誤魔化そうとした。
辛抱さんのトーンがヒートアップしていく。
たいへんに危険な状況が生じたことを早くに発表し、迅速に避難を促していれば被爆被害の拡大は防げたに違いない。
彼らの責任について有耶無耶にされて済むはずがない。
調査方法による差異であるかのような説明がなされるが、避難が遅れた人々について甲状腺がんの発症率が際立って高いのは明らかである。
なんてことなのだ。
辛抱さんのボルテージに感化され、走りつつ私も憤りを抑えきれない。
危機に際したとき、わが国の政治家やエリートらは頼りになるのだろうか。
我が身大事で市井の民のことなどちっとも考えていないというのが本当のところなのではないだろうか。
2
自宅に戻って夕飯。
昨日学校で行われた講演ではみなが涙した。
それもそのはず終盤にかけYoutubeにアップされているような「泣ける動画」が連発されたのだという。
聴衆はビデオでたっぷりと温められている。
誰がひと突きしても、涙の一つや二つこぼれ落ちるというお湯加減になっている。
そりゃ大半は泣くだろう。
ネットにはこういった類のお涙頂戴ものが溢れていて、じんと胸熱くなるものもなかにはあるが、ウソ臭くいい加減な作り話も結構な数で混じっていると思われる。
それでも人々は感動話に飢えているのか、パチモン的な要素には目をつぶり、感動要素だけをつまんでかじって涙する。
その気になれば感動させることも、泣かせることも難しくない、そのように言えるだろう。
食事を終えてそのように話していると長男からメールが届いた。
向こうはちょうど夜明けの時間。
学校で行われたその講演について長男にどうであったのかと質問を投げかけていた。
長男のときも多くが泣いたという。
彼も泣きそうになった。
しかし、踏ん張った。
泣かせるため演出が見え見えであった。
何のための涙なのだ。
お涙芸のようなもので男が泣くわけにはない。
それで涙こぼさず彼は持ちこたえたのだった。
さすが我が息子。
われら家族はそう簡単には乗せられない。
メールを読んで痛快な思いとなった。
3
結婚した当初、生活がどのようになっていくのか見当もつかなかった。
敗退し続ければ裸電球一つに照らされる暮らしとなっていてもおかしくはなかった。
なんとか踏み応え、勝ちはしないが負けもしないという日常をコツコツと積み上げてきた。
ようやくは生活の実感という手応えを覚える域には達したような気がする。
生活というものは簡単に見えてなんと重く得難いものなのだろう。
ことあるごとにふんどしを締め直し、足をすくわれぬよう重心を低く保つ。
なんだか景気のいい話を聞いたときには特にそう。
えっちらおっちら牛歩のごとく、倦まず弛まずにじり進むのがわたしたちには似つかわしい。