日曜の明け方、早く目が覚めたので映画を見る。
ちょうど二男も起き出し、揃っての鑑賞となった。
タイトルは「スタンリーのお弁当箱」。
お弁当をモチーフとしたインド映画である。
主人公の少年は学校にお弁当を持ってこない。
ママが今日はたまたま遠くに出掛けたから、などその都度理由をつけ同級生らに対し体裁を保つ。
その一方で水を飲むなどして空腹をしのぐ。
主人公は人気者だ。
話が面白くて踊りもうまい。
優しい友人らはそんな主人公に気前よく各自の弁当を分けてあげるようになる。
しかしそれを一人の教師が見咎めた。
彼はある種の摂食障害なのであろうか、生徒らの弁当をつまみ食いせずにはいられない。
だから、弁当を持たない者に対して激しく苛立つ。
怒りが頂点に達し、その教師は主人公をきつく叱った。
弁当を持たない生徒など学校に来るな、恥知らずと罵った。
この教師の存在は、子供たちに立ちはだかる不条理の象徴とも言えるだろう。
それ以来、主人公は学校に姿を現さなくなってしまった。
そして、胸締めつけられるような主人公の背景が明らかとなっていく。
映画全編に渡って、様々なお弁当が登場する。
母親らが腕によりをかけ手間暇かけお弁当をこしらえるシーンが随所に挿入される。
それを教室で談笑しながら子どもたちが食べる。
つまり、お弁当は母親の愛情そのもの。
そこには愛が溢れるほどに詰まっている。
愛情に満たされた少年らの光景と主人公が置かれた境遇のコントラストが、切なさを際立てる。
あるとき、地区でコンクールが催されることになった。
主人公は踊りが上手だった。
友人らが主人公に参加するようその情報をもたらす。
それが少年の心を再び浮上させるきっかけとなった。
主人公は、お弁当を持参して学校に現れるようになる。
これまで皆が分けてくれたように、それを皆に分け、そして母親の料理上手を自慢する。
観る者はすでにすべての背景を知っている。
知っていればこそ、母親が少年にとってどれほどかけがえのない存在であるのかが分かって胸が熱くなる。
少年にとって母親は言わばプライドそのもの、皆に話を聞かせて回らずはいられない。
その気持が痛いほど伝わってくる。
映画を見終えた頃、我が家では家内が朝食の支度を始めた。
メキシコ風の朝。
チーズと野菜たっぷりのタコス。
ホットなチリソースが食欲をそそる。
二男はそれだけでは足らずタコライスまで平らげた。
おそらく私も二男も、スタンリーとその母親のことを忘れることはないだろう。