各自ジムを終えて夕刻、福島で待ち合わせた。
路肩にクルマを停めてすぐ、家内の姿が助手席のウィンドウ越しに見えた。
予約は午後6時。
蕎麦まき埜に向けクルマを走らせる。
走行時間5分ほど。
名店は目と鼻の先にあった。
店構えからして趣きあり、中に入っても設えよく感じがいい。
すでにほぼ埋まった客の顔ぶれもすべて上品に見える。
幾つかあてを頼んでビールから始める。
帰途のハンドルを握るためお茶をすする家内が話し始める。
2万語の口火を切って放たれた話題は図書館。
このところ調べものなどあって図書館にときおり立ち寄る。
驚くのは平日午前中の光景。
定年後と見える壮年男性の姿がやたらと目につく。
一人や二人ではない。
まるで吹き溜まり。
まだ元気に働けるかに見える壮年男性らが、おそらくは知的な部類に入るのだろう、図書館で新聞などを読みはじめて、延々と読みふけっている。
その姿に真剣さや力強さはなく、ただただぼんやり過ごしている風にしか見えない。
家にいても気まずく、かといって行くあてもない。
図書館なら誰気兼ねなく過ごせてデスクにありつけお金もかからない。
おそらくはそのような事情抱えた方々なのだろう。
図書館に群居する茫々とした人影に戦慄を覚えざるを得ない。
うちの夫もいつかこんな風になるのだろうか。
家内がわたしの顔を見る。
即座、わたしは首を振る。
死ぬまで仕事、そう決めている。
だからわたしとは無縁な話。
が、子らには教えておかねばならないだろう。
世間では五十過ぎあたりで賃金は上限に達し、運良く勝ち残った者を除いては徐々に徐々に末席へといざなわれ、やがてはその末席さえも召し上げられる。
それが通り相場。
五十歳と言えば、まだまだこれから、というよりも、さあこれから、という歳である。
誰かが何とかしてくれる、そんな風にうかうかぼんやりしていると、これからというときにお役御免の鐘が鳴らされ引導渡されることになる。
明確な意図をもってならいざしらず、通うためだけに毎日図書館に通って何も生み出さない時間を過ごすのであれば、これ以上の空虚はない。
リストラされた後に更に自らをリストラしているようなものであり、歳を重ねて行く着く先がそうであれば、恐怖以外の何ものでもない。
そう話し、ビールを冷酒に切り替え、蕎麦を2種ずつ頼んだ。
先日の朝日新聞の記事が頭をよぎる。
蕎麦は音を立ててすするのが粋で通という話は、江戸の町方衆の食べ方を田舎者が真似て広まった誤解にもとづく俗説であるらしく、武士の礼法で言えば、世界の常識と同じく音を立てないことが当たり前のマナーとなる。
ヌードル・ハラスメントとならぬよう、静か厳かわたしは麺を口に含んで軽く咀嚼し飲み込んだ。
それでも、うまいという言葉が漏れ出るのは止められなかった。
帰りの道中、牛乳を買うというのでスーパーKOHYOに寄る。
ずらり並んだ食品を見れば子らの顔が浮かぶのだろう。
これも食べるし、あれも食べると家内の手が肉へ魚へと伸びていく。
引き続き、子らが嬉しそうに食べる様子が浮かぶからだろう。
果物、おやつ、アイスがカゴに次々放り込まれ、ついでに野菜も入れられた。
当初目的であったはずの牛乳が手に取られたのは最後のことであった。
一緒に付き添い、買い物がハードな肉体労働であると実感させられた。
愛情なければ単に面倒なことであり、ここまで執心吟味して品を選びあれもこれもと買えるものではないだろう。
家に帰って二次会。
家内はまったく疲れも見せず、いかにも楽しげ、子らの食事の支度をはじめた。
わたしには刺し身盛りが充てがわれた。
2万語の続きを聞きつつ料理こしらえる様子を眺め、わたしは飲みの締めにハイボールを選んだ。

