帰途、風呂に寄った。
熱々の湯につかると声が出る。
意味をなさない言葉以前のその声は、身体の奥深くから発せられる歓喜そのものと言えた。
風呂を上がり脱衣所に出ると、パリッとしたスーツ姿のおじさんが入ってきた。
年の頃、60過ぎといった風に見えるが、何やら不穏な雰囲気である。
ずっと独り言を漏らし続けている。
誰かにクレームしているかのような口調であって、独り言なのに会話の体裁が整っている。
いろいろたいへんなのかもしれない。
見ていて気の毒になってくる。
制御効かず言葉がこぼれ出てしまう。
これはある種のキャパオーバーの状態とみて間違いない。
積載量を超えて荷が背にのしかかり、こぼれ出る原始の嘆息が言葉をまとうが、そもそもそこに意味はなく、単に苦しいから声が出る、とシンプルに解釈するのが正しいだろう。
わたしは手ぬぐいで身体を拭きながら、鏡越し映るそのおじさんの姿から目が離せなかった。
独り言をつぶやきながらする脱衣の姿は奇異そのものであった。
最後に靴下だけが残って、それでも何やら一人ぶつぶつ言っている。
骨ばった肢体は、萎み切った干し柿のようであって見るからに心許ない。
スーツ姿であればまだ見映えはマシだった。
生気なく痩せて、チンチンぶらぶらの裸体に靴下だけという姿は痛ましく見えた。
やはり人には着衣が必要だ。
服を着ながらわたしはそう痛感した。
服があってこそ、人はその尊厳を保てるようにできている。
だから、人間は服を着る。
果たして、服が先なのか尊厳が先なのか。
にわとりと卵の喩えと同じく、服と尊厳は根を一にする。
そんな風に服について考え巡らせふと気づく。
だからと言って、着れば着るほど尊厳が増すようにできていないのも確かなことだ。
過剰に装えば、これまた不思議なことに痛ましい。
例えば、英語コンプレックスの強い人にありがちな、過剰な英語の使用なども同じ類の話と言えるだろう。
日本語で足りる場でさえ英語を使い、しかし知識が欠如しているからかコンプレックスが原因か、やたらとスペルを園児レベルで間違って、本末転倒、馬脚を露わすことになる。
過剰という不完全さは、実は丸裸同然で結果おじさんの靴下のような姿を晒して物悲しい。
その他、容姿であれ出自であれ学歴であれ収入であれ、そこにコンプレックスがあって覆い隠そうとすればするほど、つまり、私は美人で家柄よく頭もいいしお金持ち、そんな風に見せようと躍起になればなるほど過剰になって、逆にそこに穴があるのだと声高にしてしまうようなことになる。
つまり、隠せば隠すほど丸出し丸見え。
つつましさに心落ち着きそれが人間の美質と感じられるのは、装いの一つ上の概念だからだろう。
過剰を制御できるのは知性だけであり、その知性にこそ人は上位の価値を見出すようにできている。
だから、穴があってもムキになって取り繕わず、人間一般の一現象として軽く受け止め気楽に構えるくらいでちょうどいいのだと思う。