月曜日はリセットの日。
滑り出し上々で業務を終えて、寒風吹きすさぶなかチャリンコを漕いでジムへと向かった。
プールで泳ぎ筋トレし、サウナに向かった。
だらり弛緩して座って、汗が流れるに任せる。
運動した後のサウナは浄化効果がいや増しとなる。
カラダが新品になったかのように気分がいい。
しめにジャグジーと水風呂でクールダウンしてから、風呂を出た。
脱衣所でバスタオルを腰に巻き、ロッカールームへと移動し、そこで周囲の光景に対し、にわか違和感を覚えた。
脱衣所に裸体は馴染むが、ロッカールームは脱衣所と往来の中間地点とも言え、だから一糸まとわぬ裸体が浮きに浮く。
往来と同様、ロッカールームでは服を着てうろうろする人が多数を占める。
そこに裸体が闊歩するのであるから、どうしようもなく奇異である。
そしてそのコントラストによって思い知るのだった。
人は服を着てこそ尊厳を保て、裸体であることのなんと弱々しく、みすぼらしいことだろう。
たとえ筋骨隆々であっても同じこと。
ちんちんぶらぶらと歩く姿は貝殻のないヤドカリみたいで、いかにも頼りなく貧相で物悲しい。
服のあるなしで認識が一変する。
収容所では人が裸にされ、尊厳が剥ぎ取られ命は粗末に扱われた。
服を奪われるというのは、だから最大の暴力と言えるのかもしれない。
ジムを後にし、再び寒風のなかに出た。
厚着した恰好でチャリンコを漕ぎながら思う。
人は尊厳を保つため身を覆う何かを必要とし、衣服に限らず身にまとうプラスアルファがあってこそ人であることができる。
なるほど、人は服を着て言葉を話し絵を描いて歌って踊る。
そもそもの始めから人は何か余剰を追求しそれを表現するようセットされた存在と言うことができるのかもしれない。