事務所近隣を一時間走って隣町の風呂屋で汗を流す。
まだ日は高く光に満ちた銭湯は神聖な趣きすら漂うが如何せん群を抜く下町の湯。
祝日早くから詰めかける客らを見渡せば右も左も訳あり顔の人相に溢れている。
湯につかるという日常の光景に、穢清める民の厳かを垣間見るような思いとなった。
いろいろあるが、まずは風呂でさっぱり。
あれやこれやはその後のこと。
せいせいとしたような表情が束になってそう語る。
俗世という泥の河から浮上して心身を浄化できる貴重な時間。
丸裸になって湯に流せば、いっときは気高さを取り戻すことができる。
欠かすことなどあり得ない。
風呂なしで人間稼業など務まるはずがない。
そのような無言の声に耳傾けながら、わたしは湯からあがる。
扇風機にあたって熱を冷ます。
無数の男の裸体が鏡に映る。
わたしも十分この世界に溶け込んでいる。
まるで一員だ。
と、脱衣所でくつろぐ親方さんだか親分さんが若い衆に檄を飛ばす。
カミソリか何かを風呂場に忘れたようだ。
スーツ姿の若い衆が靴下だけ脱いで、風呂場へと走る。
戻るとすぐに次の指令が飛んだ。
おい、寿司屋行って来い。
エビ2貫、イカ2貫、ほんで、ええと、ハマチやハマチ、そんだけ、持ち帰り用で握ってもらってこい。
直立不動、全身を耳にして命令を受け止め、若い衆が駆け出す。
その背に向けて、親方さんが追加を言う。
マグロも1貫や、ええの握れって言うとけよ。
若手は向き直ってハッと返事し一目散に出て行った。
明らかに情報不足である。
これではハマチが1貫なのか2貫なのか分からない。
そのように思いながらカラダを拭いて服を着る。
若い衆はもしかしたら確認不足を後で詰められる。
マッチ1本、火事のもと。
ハマチ1貫のコストはいかほどであろうか。
そして風呂を出て、わたしも寿司屋へと向かう。
入浴前に注文してあった。
GWは予定が合わず子らとは別行動になる。
せめて夕飯くらいは一緒にご馳走を食べたい。
うちのこせがれは食べ盛り。
色とりどり上ネタ集結の桶を抱えてクルマに積んだ。
子らが待つ家へと向かう。
遠い記憶が突如蘇る。
わたしが君たちの年頃のこと。
親父にちょくちょく寿司屋に連れられた。
場所は玉造。
屋台と見紛うほどの小さい店で席は当然カウンターのみ。
無口な父は注文するだけで押し黙り、会話が発生するはずもなく、わたしたちは差し出される寿司を黙々と食べ続けた。
マグロにタコにイカにエビ。
寿司と言えばそれらがすべて。
今では脇役とも言えるそれらラインナップが当時のわたしたちにとって寿司の大関横綱だったのだ。
風化しつつあった記憶が土俵際から戻ってきた。
沈黙が重苦しくやたらと喉が渇いてお茶ばかり飲むわたしの姿が眼前に浮かび、横に座る父の横顔が見える。
いまわたしにとっては子がすべて。
寿司屋のカウンターで黙り込んでビール飲む父もきっとそうであったに違いないという確信のようなものが湧いてくる。
二度と忘れぬよう、好きな曲を何度も聴き続けるみたいに、その記憶を何度も何度も思い返し目に焼き付ける。
目に焼き付け過ぎたのだろう家に着く頃にはすっかり涙目となってしまった。