訪問先の会社の前。
クルマを停めたのも同時であったし、降りたのも同時だった。
ひと目で相手が今日面談予定の事業主の母だと分かったので会釈した。
先方も会釈を返すが視線は強い。
業界の作法なのかこちらをぐっと凝視してくるので軽く気圧された。
いわゆる品定めというやつであろう。
応接に案内されるが出だしの空気は重苦しかった。
悪あがきせず、その空気に身を任せまずは受け身で話を伺う。
驚いたことに俎上に載せられた懸案事項はわたしが取り扱う業務ではなかった。
ある程度の概要を前もって聞いてから本来であれば伺うが、今回は間に入った紹介者に任せていた。
話っていったい何でしょうかと一言念のため、紹介者に事前確認しておけば済む話であった。
もしそうと分かっていれば、ただでさえ忙しい身、遠路おして来るはずもなかった。
段取りの至らなさについて反省しつつ話を聞いて、切り上げ離席するタイミングをはかる。
事業主の母はひとしきり話し、わたしが品定めの基準に達していたからだろう、息子である当の事業主を応接に呼んだ。
切り上げるタイミングが遠のいただけでなく、数分の会話でどうやらかなり気に入られたようで、わたしは若き事業主の参謀とし毎月1回ここを訪れることに話が決まりそうな雲行きとなった。
無碍に対応すれば紹介者の顔を潰すし、相手も不快であろう。
それで頭を切り替えた。
これも縁であることには違いなく、縁であれば時間によって醸造されて、いま実らずともいつか実を結ぶこともあり得るかもしれない。
忙しいとどうしても目先ばかりに考えが集中し、損得思考に陥りがちとなる。
しかし、昨日の損が今日の得という故事が教えるとおり、縁というのは遠い先まで含めた射程において作用する何かであるから、損得という狭量な見方でみるなど不遜もはなはだしく、縁そのものが貴重なものだと人として心得るべきことであってそれは子らにも伝える必要があることだろう。
縁に導かれてここに至ったのであれば、いわば乗りかかった船。
目先で言えば一銭の得にもならないが、わたしは初対面の方に対してひと肌脱ぐことにした。
対応可能な仕事仲間と引き合わせることにし、その場でアポを取って、わたしも立ち会うことにした。
仕事仲間も喜ぶし、相手も喜ぶ。
その喜びが対流し、遠からずわたしにも喜びがもたらされる、ということになるはずである。
その間も電話がかかりメールが届く。
わたしが本来関わってこなすべき仕事を放っていったいわたしは何をやっているのだろう。
そうは思いつつも、これもまた何かの縁と受け入れてしまったからには、その力学には抗しようがないのだった。