中学受験に比べて大学受験は楽。
根拠なくそう思い込み直前にまで至った。
いま、考えを改めている。
大学受験の大変さは中学受験の比ではない。
地方予選と全国大会くらいに違うと言えば分かりやすいだろうか。
絶対大丈夫であろうと目されて通る者がいて、一方、絶対大丈夫と目されていたのに通らない者がいる。
つまり通るであろうという確度の高い者らが競り合って、椅子取りゲームというには熾烈に過ぎる紙一重の密集戦をくぐり抜けてこなければならない。
無事そこを這い出て来ることができるのか。
そんな局面においては息をするのさえ苦しい。
試験の前、鉛筆を持つ手が震えた、というのも当然だろう。
そして、試験自体が長丁場であるだけでなく、合格発表までの間も長い時間を待たされる。
だから試験が終わった後も生きた心地せず、地が揺れ続けるみたい、どっちつかずの迷いのなか留め置かれることになって、これまた辛い。
息子が受験しその友人らが受験し、伝え聞く様々な結果を耳にし、この非情なハードさが大学入試なのだと怖気をもって知ることになった。
6年をともに過ごした集大成として彼らが挑んだ最後の関門は、愛想も何もあったものではなかった。
だからこそ、その連帯感は一層強固なものになったのではないだろうか。
強くなれと大学受験に身もふたもないようなやり方で叱咤されたようなものである。
激戦が人を磨き育てる、というのは本当のことであった。
真剣勝負だからこそ生まれる規律があり流儀があり共感があり価値観があり、わたしはその生成の場面を目の当たりにしたように思う。
その意味において大学受験は非常に意義深い通過儀礼であるとやはり言えるのだろう。
どちらがどちらの立場になってもおかしくないこの身震いするような僅差を前にすれば、誰もが謙虚にならざるを得ず、互い素直にその健闘を称え合うことができる。
中年の立場からあえて言えば結果など二の次のこと。
誰一人今回の受験でその価値を損なわれた者はなく、むしろ更に強い者となる機会を得たのであって、これまで同様、誰もが欠かせない存在として互いエールを送り合う関係が続いていく。
振り返れば皆の顔が浮かび、その頑張りを讃えたい思いで胸がいっぱいになる。