幸せであることは、その渦中にあってはさほど楽しいようなものではない。
往来で思わずスキップしてみたり、嬉しくたまらず寝床で足をばたつかせたり、つり革につかまってつい笑みがこぼれてしまう、といったような歓喜や興奮とは時系列を別にする。
派手な音楽が鳴り止んでその余韻も消えた後、ただただそこに漂う静寂に黙って耳を傾けている状態と言えるだろう。
夕刻、家内からメールが入った。
スイカを買い忘れた、とのことだった。
スーパーに行くとついわたしは余計なものまで買ってしまう。
家内はそれを熟知している。
他には絶対に何も買ってこないよう釘を刺された。
言いつけどおりわたしはスイカだけを買いにスーパーに寄り、スイカだけを買った。
長い夏が引き続くが、スイカはすでに旬を終えようとしている。
名残を惜しみ、わたしはスイカを2種買った。
夕飯は家内特製のお好み焼きだった。
うちで粉ものが食卓に上ることは珍しい。
二男が前夜、お好み焼きが食べたいと言ったからであった。
息子たっての願いとあって、力作が仕上がった。
分厚い豚肉がこんがり焼けて香ばしく、エビはぷりぷり歯ごたえあってとても美味しい。
家で家内が作ったお好み焼きを食べる。
それが美味しい。
素朴に幸福なことであり、わたしはその幸福をひとり寡黙に噛み締めた。
寡黙のなかには、これがいつまでも続いてほしいと願うような気持ちと、一寸先は闇、人生何が起こるか分からないという漠とした不安が息を潜めて混ざり合っている。
幸福だから心はいたって平穏である。
が、何かの拍子で内蔵された不安のセンサーが一斉に発動すれば、たとえ虚妄に端を発した誤作動であったとしても、一気に恐慌状態に陥ることになるだろう。
そうなると不安が幸福の座にとって変わって、幸福はもう戻ってこないかもしれない。
そういうことが人には起こり得るのだと知っているから、何であれ手放しでは喜べない。
幸福は常に不安と背中合わせであり、失われてはじめて切なく憧憬するような類のものと言えるから、一種の矛盾ではあるが、幸福を享受しつつ同時進行でその瞬間瞬間に幸福を満喫できるようにはなっていない。
だから、たいしたことでもないのに「嬉しすぎ」とか「最高すぎ」といった言葉を乱発し幸せをアピールするような人というのは、幸せを実感しているというより幸せだという自己主張の方に重きがあってそう連呼していると見ればいいのだろう。
劣情の次元で言えば、人に優越することほど気持ちのいいものはない。
どや、と自身の幸せぶりや優越を開陳した際、全身を快楽物質が流れるから、やめられないとまらない。
だから嘘までついて幸せをアピールする人がいても何ら不思議ではない。
その種の人にとっては、幸せなどより快楽物質の方が大事なのであり嘘など安いコストというものだろう。
そんな劣情的な歓びに比べれば、単に幸せであることは、実に淡白で心もとないものである。
プレイバック昔の写真 2018年3月13日 台北での朝食