作家の池澤夏樹さんが『ヒト、犬と会う(島泰三著)』という書籍について毎日新聞でも朝日新聞でも取り上げていて、なるほどそのような見方もあるのだと強く印象に残った。
巨大化した脳の帰結か、人は常に妄想と幻に怯えながら生きなくてはならなくなった。
その弱点を補完したのが犬だった。
犬は超現実主義者。
実在するもの以外は認めない。
虚妄に怖気づく人という種族からすれば、強力な精神の持ち主とも言える。
窮地において人はパニックに陥るが、犬は常に適切な活路を見出す。
だから人が生きるうえで犬は欠かせぬ存在となり、犬との音声を通じたコミュニケーションがやがて言葉となった。
人と犬との互いを相強めるそんな共存の話を読んで、突拍子もなくわたしの頭に家内のことが浮かんだ。
現実感覚という視点でみたとき、どちらかと言えばわたしは妄想過多。
感傷を糧とし空想癖あって、深夜の物音ひとつで身を竦めるほどに気が小さい。
客観性より主観が勝り、所々で現実を見誤っていると指摘されれば、なるほどそうかもしれないと思い当たること多々あって否定し難い。
一方の家内はリアリスト。
状況の読みが早くて機転が効いて行動も素早い。
つまりわたしに巣食う致命的な欠陥が、家内によって穴埋めされているということである。
よって曲がりなり現実のフィールドで人並みのファイトが果たせている。
命を守る鉄則は決して犬から離れないこと。
アラスカではそう言い習わされているらしい。
わたしの場合はそこが妻に置き換わる。
最良の伴侶は自身の弱点を知ってこそ見つかる。
そう言ってよさそうである。



