午後最初の業務先は家の近所だった。
道すがら家に寄ると、家内はヨガのレッスンを受講中だった。
午前中、仕事の手伝いで市内をクルマで走り回ってもらっていた。
だから、すでに家に戻って何食わぬ顔でヨガに勤しむ姿に、神出鬼没とでもいった驚きを感じた。
業務を終え、またいったん家に戻った。
今度は床暖のうえでクッションに身を預け、家内は英語の音読練習に取り組んでいた。
わたしの仕事密度よりもはるかに濃い日常を家内は過ごしている。
そう感じた。
先日、息子が言っていた。
いまどき弁当を毎日作るおかんなど数限られていて、英語の鍛錬に励むおかんに至ってはどこを探してもいない。
なるほど、普通の専業主婦とは一線を画す。
町をぶらついたり、ママ友とのおしゃべりに興じたり。
そんな過ごし方が主婦一般の姿なのかもしれないが、それを楽しいと家内が感じるはずはなかった。
目線の先にありありとした未来が見える、というのだろうか。
だから無為がじれったく、じっとしていらない。
英会話は海外旅行を楽しむため、また海外の客人を迎えてもてなすため。
料理は息子のよりよき明日のため。
ジムやヨガは自身を活性化し、目線の先の未来をぐっとこちらに引き寄せてくれる。
つまり、明るく楽しい未来に照らされて毎日が光り輝くという流れのなかにあるから、その未来に無関係なことには目もくれないということになる。
一日の業務を終えジムで一汗流してから帰宅すると、家はピカピカだった。
掃除屋さんが来たのだった。
掃除屋さんの話はいつも面白い。
今日はどんな話をしていったのか。
家内に聞くが、特に何も話さなかったとのこと。
掃除屋さんが時間に遅れ、ちょうど英会話の時間と重なった。
だから掃除の間ずっと家内は海の向こうのセルビア人と会話していたのだという。
家内は言った。
こう見えて主婦はたいへん。
無駄話ばかりしている訳ではない。
この一日をちらと見ただけで、わたしには家内の忙しさが実感できた。
なるほど、時間がいくらあっても足りない。
おっしゃるとおり。
わたしは、はいはい、と頷いた。