KORANIKATARU

子らに語る時々日記

禍々しくも暗い火が眼に宿る

家族皆で軽くざるうどんをすすって、息子は英検会場、わたしたちはクルマ走らせ最近できたばかりのジムに向かった。

 

朝8時過ぎ、人もまばらなジムで家内とともにマシンを使い筋肉に負荷を与え1時間ほど走って体調を整えた。

 

家内の目があるので、さぼれない。

いつにも増して頑張った。

 

帰宅し身支度して、ようやく日曜の行楽。

 

なんばに足を向けた。

10月に入ってあちこちで北海道展がたけなわ。

高島屋も同様。

 

ルタオなど懐かしの甘味の列に並んで味わって、室蘭うずらプリンなど幾つかおみやげも見繕った。

 

昼にさしかかりどんどん人の嵩が増してきたので階下に降りがら空きのフロアをゆったり巡ってリビングまわりの小物などを買い求めた。

 

そうこうしているうち時間が迫った。

地下食でサンドイッチを買って準備完了。

 

高島屋を出て向かうはTOHOシネマズ。

封切りとなったばかりの『ジョーカー』の席を予約してあった。

 

家内はリバー・フェニックスの大ファンだったから、その弟のホアキン・フェニックスが主演と聞けば関心を示さないはずがなかった。

それ以外の事前情報は何もなく比類ないレベルの話題作とだけ知って鑑賞に臨んだ二人であった。

 

出だしから重苦しく、舞台は暗く貧しく汚らしくてまるで救いがない。

しかし片時も目が離せない。

そんな強烈な磁力を放つ映画であった。

 

主人公アーサーの不遇を知れば知るほど、ハッピーの対極にある身が物悲しく、コメディアンになることを夢見る姿がシュールに過ぎて、彼が笑えば笑うほど嗚咽にしか聞こえず、胸締めつけられるのでこちらはまったく笑えない。

 

アーサーの視点を通じ虚実入り交ざってストーリーは進む。

 

境界なく視点が虚と実を行き来するので、わたしたちはアーサーの世界にだんだん取り込まれ、よほど注意を払わないとついついとんでもないアーサーの妄想に感情移入し共感してしまうことになる。

 

たとえば、誰かの死についておぞましいと思う一方で別の誰かの死には胸がすく。

 

アーサーの視点では暗示だけに留められ描かれなかった凶行もあったはずで、観ていてそれに気づけば共感などあり得ないが、うっかりそこがブラインドになればアーサーの境遇を気の毒に思って暴力発生もむべなるかなと肩を持つような気持ちになるのもやむを得ない。

 

映画を観つつアーサーの妄想に導かれ暴力的衝動を喚起され、アーサーの動機とは何の脈絡もなく群衆が叫ぶ「金持ちを殺せ」とのスローガンに心震えて賛意を送った人も少なくないのではないだろうか。

 

ブルース・リーの映画を観た後でアチョーと口走り、はたまた高倉健の映画を観た後で寡黙になる人がいるように、ジョーカーとして降臨したアーサーにヒロイズムを覚え、禍々しくも暗い火を眼に宿した人がいたとしても何ら不思議なことではない。

 

暴力がジョークとなり得る世界にリアリティがあるから劇薬危険とさえ言える作品であり、貧困と不遇のどん底から暴力性を解き放ち、嗚咽を高らか弾むような笑いへと昇華させていったホアキン・フェニックスの演技も鬼気迫って空恐ろしいものと言えた。

 

ヒトの内に潜む暴力性は妄想にさえ感情移入し暴発しかねない。

そこに戦慄のようなものを覚え映画館を出た後も不気味な余韻が引き続いた。

 

見終わって、家内とともに難波界隈を歩く。

空晴れて人出多く陽気な賑わいが街に溢れ、しかししばらくジョーカーの残像がよぎって頭から離れなかった。

 

そんなときは飲むしかない。

目が合った市場すし千日前店に入ることにした。

 

明るいうちからヒラメの塩焼をあてにビールを飲んでハイボールを飲み、おいしいネタを家内と一貫ずつ分け合って食べた。

小腹ふくれて心満たされ、やがてジョーカーの笑い声の残響は消え去った。

 

駅に向かいがてら再度高島屋に寄り、家での二次会用に赤白のワインを試飲して選び、チーズの盛り合わせも連れ帰った。

 

家ではテレビを前に家内とワインを注ぎ合った。

観る番組はNHKの「ダーウィンが来た」。

 

奈良公園の鹿が特集されていた。

フランス人の友だちが来たときは春日大社から二月堂を経てならまちで遊ぶのがいいのでは。

そんな話をしつつ平和な現実にくつろいだ。

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2019年10月7日 息子の弁当

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