作り置きのもので朝食を済ませ自宅近くのジムまでクルマを走らせた。
土曜7時、道はがらすきでジムに先客はなかった。
黙々と平素のメニューをこなして一時間半。
休日の義務を朝一番で果たした満足感で胸が満たされた。
家に戻って二男を送り出し、わたしは映画でも観ることにした。
Netflixの画面をスクロールしクリント・イーストウッドの『運び屋』を選んだ。
麻薬の運び屋タタの正体は90歳の老人。
生涯を仕事に捧げ好きに生き、家族とは疎遠になった老人がお金に行き詰まり出合った仕事が運び屋だった。
それでみるみる潤うが家族との距離は縮まらない。
しかし、遠距離を運転し方々に麻薬を届ける日々のなか、知らず知らず募っていくのはただただ家族への想いであった。
運び屋として重責を担う任務の遂行中、彼はある決断を迫られる。
そのとき、何が大事なことなのか彼はすでに諒解していた。
映画の終盤、号泣してしまった人は少なくないだろう。
わたしたちは家族とともに生きていて、わたしたちにとって家族と過ごすこと以上に大切なことなど何もない。
映画を通じ観る者もシンプルにそう諒解することになる。
わたし自身も家族への思いを噛み締めるような気持ちになった。
長距離を運転する主人公と同様、「ひとり」で観るのがいいように思う。