土曜の朝、二男を送り出す。
テレビには吉村大阪府知事。
兵庫大阪での感染爆発のリスクについて語っている。
家内とジムに出かけようと支度していたが取り止めた。
武庫川を走ることにした。
武庫川は大勢のランナーで賑わっていた。
春の光が降り注いで川面に跳ねる。
辺り一帯が輝いて、すべてが躍動して見えた。
サッカー少年の一団からサッカーボールが転がってきた。
家内がそれを勢い良く蹴り返してキックオフ。
わたしたちは北に向かって走り始めた。
ほどなくしてわたしの携帯が鳴った。
仕事の電話だろうか。
一瞬そう身構えたが掛けてきたのは長男だった。
スピーカー設定にしてしばし会話する。
バイト先で春季講習が始まる。
人気投票が行われそれで講師が等級化される。
勝負の春だ。
意気込みをわたしに語りつつ同時、電話の袖にいる誰かと彼が英語でする会話も聞こえてくる。
朝活の一種か、留学生の友人らと一緒にいるようだった。
何であれ力が問われることはいいことだ、頑張れとわたしは言い、ムキになって頑張ることはない、何か送って欲しいものはないか、と家内も話に混ざった。
電話を終え夫婦の会話は英語を巡ってのものになった。
長男が入った西大和はかなり英語に力を入れていた。
英語を制する者が受験を制し、英語の修得が未来のフィールドを大きく切り拓く。
そんな考えに貫かれていて、口を酸っぱくして英語の大事さが説かれ、中1の序盤から徹底的に鍛えられた。
西大和と大阪星光は好対照。
大阪星光では理数系の力が礼賛されて英語は脇役といった扱いに見えた。
数学ができればそれが優れた地頭を証し、英語の不出来もご愛敬といった雰囲気が底流にあるからなのかもしれない。
だから、家内は独自に二男の英語に力を入れた。
数学ができる男子など山のようにいてその出来不出来による社会的アウトプットの差など微々たるもの。
しかし英語の出来不出来は先の人生の大小をさえ決定しかねない。
うちはそのような考えだった。
今年の卒業式で65期の代表は様々なシーンを振り返りながらこう述べた。
英語の単語テストでは不合格者続出でいつも大教室を満員御礼にした。
このエピソード一つをもってして、大阪星光での英語の位置づけが推し量れるというものだろう。
66期の代表は卒業式の送辞において、65期をこう評して感謝の意を示した。
どこに飛び跳ねて行くのか分からないラグビーボールのような先輩たちに恵まれて刺激に溢れていた。
そんな学年をも統べて指導できるようなリキある英語の先生がいれば65期の進学実績はまだマシなものになっていたのかもしれない。
よい英語の先生を迎え入れるために大枚はたきそれで月謝が値上がりしても文句を述べる保護者はひとりもいないはずである。
塾のバイト教師でさえ等級づけられ厳しく成果が問われる。
希望に胸を膨らませて大阪星光に入ってくる子どもたちすべてが一生懸命夜遅くまで勉強しあの苛酷な受験を潜り抜けてきた。
彼らに報いるために何が必要か、少し考えれば誰にだって明らかなことではないだろうか。
そんな話をしてたっぷり一時間走り、わたしたちは武庫川を後にした。