魚を焼くというので、帰途、たこやに寄った。
女将が言うにはメバルがおすすめ。
切り身にしてもらい、ついでにアワビも手に取った。
家内の大好物である。
きっと喜ぶに違いない。
家内が支度し、いつものとおり二人で夕飯を共にした。
焼き上がったメバルを分けて美味しく、アワビはその上を行く美味しさだった。
それらに加え最後に肉が焼かれたのであるから、ささやかながら今夜もご馳走と言えた。
食が人生を彩って、日々を支える芯となる。
どこを切っても暮らしの断面にご馳走が姿を現す。
一種の金太郎飴みたいなもの。
この継続は家内あってこその話。
料理上手なフリは誰でもできるが、実践となると話は別。
積み重なった結果がすべてでそれが実力を証す。
簡単に真似できることではないだろう。
食後はドラマ。
『梨泰院クラス』の最終回を夫婦揃ってじっくりとみた。
素晴らしいドラマだった。
わたしたちが若い頃、こんなドラマがもっとたくさんあれば良かったのに。
つくづくそう思った。
かつてドラマはマーケティングの道具のようなものであった。
若者は商売の対象であり、まるで赤子の手をひねるかのよう薄っぺらな価値観を植え付けられた。
無力な若者は無力なまま絵空事の消費がスタンダートだと思い込み、だから劣等感が先立って、つまらぬものを羨望し自身の価値を軽んじた。
損なわれたのは主体性であり、自己肯定感であった。
いまだその価値の残滓を引きずる者も少なくないから、ドラマが与える影響は侮れない。
韓流だと、どうでもいいようなことがテーマにならない。
たいていが全力投球、真剣勝負。
発火する生命そのものが主題となって、そうでなければ見向きもされない。
だから、観れば引き込まれ、根本的な次元で自らの在り方を考えることになり、何が大事で何が些事なのか、見分ける眼力が養われることになる。
つまりドラマが人間教育のツールとして機能する。
『梨泰院クラス』はうちの二男も観たという。
登場人物の背中が強く何かを指し示し、その魂が彼の胸に宿ってこの先を伴走してくれることになるだろうから心強い。
勉強ばかりするのが受験生ではなく、適宜、適切な燃料補給が欠かせない。
そういう意味で韓流ドラマは役に立つ。
この6月5日、第65回百想芸術大賞では『愛の不時着』のヒョンビンと『梨泰院クラス』のパクソジュンがともに主演男優賞にノミネートされたという。
これまでまったく興味のない世界であったが、Netflixでそれらドラマに触れ、大いなる関心をもって行方を見守ることになった。
そして、『愛の不時着』を上回り、『梨泰院クラス』はサウンドトラックが図抜けていい。
しばらく当分、耳を通じてドラマの余韻に浸る日々が続くことになる。