疲労が溜まると動きが止まる。
前へと進む意思はあっても空転し、もがけば苦しくジタバタしても停滞を脱することができない。
ジムやサウナに通っていたのが遠い昔のことのよう。
血流は最果ての下流のごとく滞り、疲労物質がうず高く堆積しては上流に向け毒を吐く。
自力でこの悪循環を打破することは難しく、このようなときは人の手を借りるしかない。
で、午後一でマッサージを受けようと思い立ったのであるが、あいにく近所はどこも営業自粛。
ようやく探し出した場末のマッサージ屋にすがって伏してカラダを託した。
ここが幸い、当たりの店だった。
怪力のおばさんにグリグリとカラダを揉んでほぐしてもらって、よみがえった。
施術の最中、自身がどれだけ疲弊していたのかと思い知った。
あちこちの部位が草臥れ果てて、人の手という恵みの雨を待ちわびていた。
だから手荒な刺激であっても大歓迎。
全身各所が身悶えしつつ歓喜した。
事務所に戻っての来客対応では、わたしは笑顔満面。
快活、饒舌に仕事したのであったが、ひとえに怪力おばさんのマッサのおかげと言えた。
わたしは折々訪れるリピーターになることだろう。
終業後、手伝いに来ていた家内と買物してからその運転で帰途についた。
夕飯はこの日もヘルシーそのもの。
自身をねぎらい、赤ワインのグラスを傾けていると電話が鳴った。
長男からだった。
バイトで稼いだお金で株式投資を始めるのだという。
なんでも勉強、大賛成とわたしは返事し、引き続き読んだ本の話となって盛り上がり、電話の後でしみじみと思った。
わたし自身はこの日一日を無為に過ごした。
なにせ疲労を取るので精一杯。
ほぼ終始劣勢にまわり、成果はゼロに等しかった。
が、こんなときも息子は何やかやと成長し続けている。
不毛な日を過ごせばいつもなら後ろめたさが拭えず気分優れず、多少なりとも尾を引くが、息子と話してわたしは救われたような気持ちになった。
自身の内に生じた欠落を息子が埋め合わせてくれるのだから百人力とも言えるだろう。
まもなく二男も帰宅した。
受験生だが単なる点取り屋を目指すのではなく、広範な知性を宿したいと意志してあれやこれや彼の読書範囲もなかなか手広い。
つまり、息子二人がわたしの両輪のようなもの。
黙っていても欠落は埋められ、立ち尽くしていても前へと進む。
なんと楽ちん。
そう思って、しばし後、思い直した。
依然、わたしが一家のあるじ。
たとえポンコツであれ先頭に立つ気概を失っては父とは名乗れない。
本を読み仕事もし自身の世界を広げ続ける。
力尽きるまでそんな姿勢を保持すべきだろう。
そういう意味で怪力おばさんを擁するあのマッサージ屋と出合ったことは僥倖なことであった。
あれこれ人の手を借りてでもまだ当分、父としての任務を果たさねばならない。