時間を持て余すとよく近くのTSUTAYAをぶらついた。
あてなく棚を物色し、偶然手にとるという形で数々の映画と出合ってきた。
近所のTSUTAYAがなくなってもう何年になるだろう。
いまや動画配信サービスがひしめき合い、一つところにいながら好き放題に作品を選ぶことができる。
Netflix、AmazonPrime、TSUTAYA TV、これだけあれば十分。
ほぼすべての作品を探し出せる。
だからわざわざビデオレンタル屋に足を運ぶ必要がない。
店が存在意義を失って姿を消すのもやむを得ないことだろう。
しかし便利となった反面、数多くの作品を一望のもと、手繰り寄せられるかのように映画と出合うという醍醐味はなくなった。
結果、一つところの似通った作品ばかり観るようになったから、「足を運ぶ」ことがなくなって世界が小さくなってしまった、と言えるのかもしれない。
前日と同様、テールラーメンを食べてからクルマを駆って二男と事務所に入った。
事務所キャンプ3日目。
二男は課題に取り組むが、わたしについてはすることが見定まらない。
やりたいことは山ほどもある。
長男に送る本を再読しておきたいし、二男に渡す新聞記事のチョイスもしたいし、読もうと思ってそのままになっている『鬼滅の刃』も読み進めたいし、楽天マガジンでビジネス誌のバックナンバーのチェックもしたいし、映画であれば何でも観たい。
自由度が大き過ぎかつ選択肢が多過ぎる。
だから選べずフリーズしてしまうということなのだろう。
結局、最も安易な選択をしてこの日も安逸をむさぼった。
観たのが韓流ドラマ『梨泰院クラス』。
これがめちゃくちゃ面白く、一話終わってその続き、またその続きとなされるがままとなってしまった。
夜8時、息子を乗せ家へとクルマを走らせた。
夜道をヘッドライトが照らすだけの静かな夜。
二男が休憩中に読んだ本の話をしはじめて、おのずと話題は根源へと向かっていった。
「死」とは、「無」とは、「私」とは、一体何なのだろう。
これまで無数の人間が問い、長く連なる言葉の広大な編み目のなか明確な答が見出されぬままとなっているそれら概念について、ああでもないこうでもないと編み目の浅瀬で二人して首を捻り続け、そうしているうち家の灯が見えてきた。
家に帰ると、家内がとても明るかった。
この夜はメキシカンだったからだろう。
まるでラテンのリズム、家内がことのほか楽しげで饒舌だった。
特製タコスを一つ作っては、わたしと二男に交互に手渡してくれる。
二男は言った、タコベルより美味しい。
それで家内は更に上機嫌になってタコスを大奮発してくれ口数も増した。
昼に断捨離をしていると昔の日記が出てきた。
そう言って、家内がそのノートを見せてくれた。
家内がいまの二男と同じ年の時分のこと。
グループでデートした日の話や友だちのことや先生のことといったあれやこれやがかわいらしい字で綴られていた。
印象深かったのは定期試験に臨む際の記載。
勉強に取り組む意気込みや心構えなどが言葉数多く書かれていて、徹夜するコツとしてエアーサロンパスを目の周りに塗るといった話もあって、思わず笑った。
家内の真面目気質は今に始まった話ではないのだった。
タコスをいくつもお代わりしスパークリングを注ぎ合っていると、長男から家内に電話がかかってきた。
料理についての質問だった。
料理談義に引き続き、家内の今日が長男に語られた。
家で料理し、リビングの大画面を観てエクササイズし雑誌を読みドラマをみて、そうそう断捨離をしていると日記が見つかった。
電話での話は際限なく続いて、わたしは思った。
いま家内に日記は不要。
息子と話せればそれで十分。
あの当時、日記を書いていた多感な女子は、いまとても幸せな母になったのだった。