物欲が消えて久しい。
欲しいと思うモノはなく、かつて欲しいと思ったモノにも食指は全く動かない。
二男の時計をネットで選び、ふと思った。
若い頃なら自身の物欲も起動し、わたしも何か欲しいと思ったのではないだろうか。
息子のための時計は欲しいと思う。
しかし自分のものを欲しいとは思わない。
この歳になって自分濃度が更にますます薄まったと言うことだろう。
わたしにとって物欲の盛りは二十代の頃。
服をはじめとする格好にこだわった。
自分をどう見せたいか。
どう思われたいか。
それが考える最大のテーマ。
自分のことで頭がいっぱい。
自分のことしか頭にない。
そんな状態と言えた。
つまりは空っぽ。
逆説的な話になるが、自身の内に何もないから自己イメージにこだわるような思考で頭が満たされたということだろう。
30歳になった途端に結婚し、まもなく子を授かり、同時に自営業者になった。
20代とはすべてが様変わりした。
否応なく自分のことなど二の次となった。
懸命に毎日を過ごすなか、わたしなどよりはるかに必死に働いた祖母のことや若い頃の両親のことをよく思い出すようになった。
その姿がわたしにとって励みであった。
当然、祖母も両親も自身のことなど後回しという人たちである。
いろいろ大変だったけれど、家庭を持ったことが契機となってわたしもその精神の仲間に入れた。
そう思うと喜びを感じる。
いい歳してなお頭の中が自分のことばかりだったら、それは幸せなことではなく危ういことであっただろう。
何かに夢中になれば、自分というものが薄れる。
その状態が人にとって幸福で、だから健全と言える。
自分に執心する自分お化けは、ある種の中毒症状のようなものであり、巨大な空費を自覚していないはずがないから、喜びからほど遠く、実は苦しみがまさる。
いつ病んでもおかしくない、と言っても大袈裟ではないだろう。
なんの努力も訓練も課されてこず、ぬくぬくいい思いだけして過ごしてきた人がぬくぬくの部分を失えば、手軽な供給が途絶えて事である。
そんな人は、何かに精一杯取り組めば自身が薄まるといった喜びと無縁であるから、他人依存の度を強め、はた迷惑な自分お化けに変貌しかねない。
何の話をしているのか。
将来の伴侶についての話に決まっているではないか。