見合いに臨む直前の心境が日記に綴られ、それが記事の出だしであったからいきなり一面から引き込まれた。
日記は続く。
会って印象良くその見合いが決め手となって伴侶が決まった。
その後も日記に日々の断片が書き記される。
妻への感謝の言葉や昇進が決まった日の固い決意などがしたためられ、幸福な夫婦の記録が続くがしかし、股関節に違和感を覚えたとの記述があってそこから状況が一変した。
続きは社会面。
わたしは朝日新聞の紙面を次々めくった。
病を主題に日記は以後も続くが、とうとう日記の主は亡くなった。
日曜朝から深い沈黙をもって考えさせられた。
いい時もあり悪い時もあり、あれこれあるが最後には終わっていく。
読んで十数行。
そんな話で要約できてしまうのが人生の本質なのかもしれない。
かたわらでは家内が朝食作りに勤しんでいた。
プチトマト20個の皮を全部剥いてペースト状にし、そこに山竹のミンチ肉と各種野菜を加えてソースをこしらえ、リングイネをほどよい硬さ加減で茹でて、まもなく特製のパワーパスタが仕上がった。
ここ一番、勝負の朝はパスタで決まり。
息子が長丁場の模試を受けるとなれば腕によりをかけるのが家内にとって当たり前の話であった。
もちろん絶品。
二男はパスタをお代わりし用意されたフルーツもすべて食べ尽くした。
この日、東大模試の会場がたまたま大阪星光。
友人らと一緒だから、昼と夜は彼らと共にするという。
だから、弁当ではなく小遣いを息子の財布に入れ、いつものように新聞記事をひとつ手渡した。
これも朝日新聞。
モニュメンツ・ウィメンの最後の生存者モトコ・フジシロさんが先ごろ亡くなったとの記事であった。
第二次大戦中、日米のはざまにあって活躍した日本人女性がいたのだと深い感銘を受けた。
数十行で要約されるにせよ、感謝と尊敬の念を以って語られる存在について息子も知って置いたほうがいい。
そう思って息子の手に握らせた。
息子を送り出し、わたしたちは手持ち無沙汰になった。
ちょうど米が底をついていた。
食材調達に出かけようと意見が一致し、一昨年の8月と同様、奈良桜井を目指した。
まずは三輪山本。
出遅れれば長蛇の列の一部分になりかねない。
ちょうど開店前に到着することができた。
売店で各種素麺を選び、食事処で早めの昼を食べることにした。
わたしは冷やし素麺とイクラと湯葉のご飯。
家内はウニホタテ煮麺と天ぷら。
互いの品に箸を伸ばし分け合って食べたが、大半はわたしの胃袋に収まった。
続いて、大神神社。
手を合わせお守りをいただき、少し歩いて狭井神社で御神水を飲み久延彦神社で合格を祈願して絵馬を奉納した。
お詣りの後は、創業180年に及ばんとする老舗みむろでお茶をいただいた。
ここは大阪星光51期、京大経済卒の石河さんの実家の店でもあった。
冷たい抹茶がとても美味しく、その微かな苦味とみむろの品のある甘みが見事調和し、その美味の競演はそれこそ神業の域と言えた。
帰途まほろば館に寄り、土地の野菜や果物など食材を買い込み、家で荷物を降ろしてそのままジムへと向かった。
たっぷりと運動し、簡単に夕飯を済ませていると長男からメッセージが届いた。
ラグビーの練習が再開になったという話に続いて写真も送られてきた。
それを眺めて、夫婦で飲むシーバスのハイボールは格別であった。
しばらくしてから二男も帰宅。
遅かったのは、東大模試を受けたメンバーで焼肉を食べていたから。
いつもとは異なる顔ぶれであってもそこは大阪星光、仲がいいことに変わりはない。
このようにたった一日のことであれ書いて記せば十数行には収まらない。
ただ遠く離れれば、群居する点も一点にしか見えなくなる。
それと同じで時間が経てば、盛りだくさんだったエピソードも数行に収まってやがては一行となり、ついには一語程度になってしまう運命なのだろう。