そのとき長男は東大の友だちと渋谷でラーメンを食べていた。
電話が鳴った。
別の東大の友だちからだった。
長男の部屋が水浸しになっているのだという。
ラーメンをかき込み、友だちと一緒に友だちが待つ自分の部屋へと飛んで帰った。
この3人。
すべて西大和出身で近隣に住む。
部屋の水漏れを先に発見したのが友だちだというから、行き来の風通しの良さが伝わってくる。
原因は先ごろ買ったばかりの洗濯機の排水管の不具合だった。
その場で業者に連絡し、接続の不備を解消してもらった。
このように友人が傍にいて、しょっちゅう一緒に過ごしているから親として安心なことこの上ない。
東京から舞台移って大阪。
二男の友人らが久々うちに泊まりに来ていた。
神医や京大や阪大など各々合格の知らせを携えていたが、皆一様に浮かぬ顔をしている。
寄せられるその他友人らの結果が芳しくないとのことだった。
伝え聞いてわたしも愕然となった。
番狂わせにもほどがある。
学年で100番に入っていれば京大、50番に入っていれば東大に通る。
そんな古き良き時代の星光基準は今後大幅な見直しを迫られることになるに違いない。
結果、文系でたった一人東大に通った首席一人を除き、二男のほか最強最上位の二人も早稲田となった。
中一の入学式のあと、梅田の定期券売り場で顔を合わせ挨拶交わした同級生もやはり何かの縁なのだろう指定校推薦で早稲田。
二男とともに国体の大阪代表に選ばれたもう一人の66期も早稲田となった。
この他、二男が韓国旅行した際に知り合った美人女子学生も早稲田への留学が決まった。
地元で育まれた近しい関係がそっくりそのまま東京の地に移植されるようなものである。
話の第二幕がどのようなものとなるのか。
想像するだけで楽しい。
長く続いたコロナ禍は、間もなく終息をみるだろう。
そうなれば、夏冬春といった休暇の際、引き続き西大和や星光の同級生らがうちに泊まりに来て、慶應や早稲田の新顔もやってくることになる。
やはり楽しい。
そんな話をしながら、わたしと家内は芦屋で蕎麦を食べ、食後、熊野の郷へと赴いた。
家内がアカスリとマッサージを受ける間、ビールでも飲んでくつろごうとわたしは思い立った。
それで待ち合わせ時間よりかなり早めに湯を上がった。
ところが、コロナの影響なのだろう、休憩所は閉鎖され酒類の販売は取りやめとなっていた。
硬い椅子のうえに腰掛け進まぬ時計を見続けているうち、道中、家内に言われた言葉が頭によみがえった。
早慶でもいい。
そんな考えが父親の心の根底にあった。
それが息子二人の敗因なのでは。
そのときは返事をせずわたしはただ押し黙った。
硬い椅子の上でそのシーンを回想しながら、ようやくのことわたしは頭の中の家内に言葉を返した。
いや、違う。
早慶でもいい、ではなく、早慶の方がいい。
仮想のやりとりを通じ、わたしは自身の本心に行き当たった。
だから敗戦ではなく見事な勝利。
そう気付いてしまえば、それを勝利と捉えることに何の違和感も覚えなかった。
早慶出身者なら当然。
分かる人には分かる話であるに違いない。