昼になってようやく雨があがった。
分厚く空を覆っていた黒雲はきれいに取っ払われて、青々とした空が視界の涯まで広がった。
所々に点在する雲は真っ白で、空の青をより鮮やかに際立たせていた。
涼風に樹々が憩い、ハッピーエンドの穏やかさに包まれる街をぶらり歩いて、わたしは地元の神社を訪れた。
明日から仕事再開。
手を合わせ頭を下げた。
家に帰って特にすることもないので家内と二人、映画でも見ることにした。
再生させたのは、ずっと鑑賞を先延ばしにしていた『永遠の門 ゴッホの見た未来』だった。
雨上がりにもってこい。
ゴッホが目にした色彩世界が屋内に出現することになった。
随所にゴッホの作品が顔をのぞかせる。
その度、横に座る家内がゴッホ美術館で買ったガイドブックのページを繰った。
画面の内と外がゴッホに彩られ、次第次第、ゴッホの実在感が増していった。
彼はまさに求道者だった。
地上の美を具現するため天から送り込まれた存在とさえ言ってもいいのかもしれない。
一心に絵に向かい、時に常軌を逸してまで絵に向かった。
眉を顰められた数々の奇行も、絵を至上と捉えれば崇高な行為として一貫していたと言えなくもない。
映画の最大の見所は、名優マッツ・ミケルセン扮する神父とゴッホが対話するシーンだろう。
キリストの存在意義が死後になって明らかとなったように、ゴッホもまた死後に見いだされるとの確信を持っていた。
絵は永遠であり、自らが為す仕事は未来の人々のためのもの。
その確固たる認識は彼の信仰告白とも言えた。
そしてその対話での予言どおり。
未来の人々であるわたしたちは、いつでも気軽にゴッホが描いた星空や糸杉や麦畑といった「常軌を逸した」美にこの目で触れることができる。
ゴッホが晩年を過ごしたオーベルシュルオワーズに映画の舞台が移ったとき、家内は盛んに昔撮ったiPhoneの画像をスクロールし始めた。
大事なものを何も見ていなかったに等しい。
映画を見て家内はそう気づかされた。
素人が漫然と歩いても意味がない。
もっと目に美を学習させてから、求道者の足跡をたどり直す必要がある。
いざ行かん、フランス。
雨上がりの極東の地の一角にて、中年夫婦はそう決意した。