肌寒さを感じる季節になったので相応の部屋着を探した。
アマゾンに安くて評価の高い品があり、試しに買ってみた。
届いて早速袖を通した。
かなり着心地がいい。
すぐに息子二人の分も注文した。
送り先は下北沢と高円寺。
翌日、長男から「最高」、二男から「めっちゃいい」とのメッセージが届いた。
その言葉によってわたしの部屋着の着心地の良さが倍加した。
このように例えば掃除機から米に至るまでネットで注文し息子らに届ける。
送る品は多岐にわたりかつ同じものを使いあるいは食べるから、部屋着と同様、様々なものに愛着が湧くということになる。
塵も積もればの喩えのとおり、小さな愛着も集積すれば世界大への愛に育っていくのかもしれない。
であれば、やはり子を通じ愛情の何たるかをわたしは学んでいるということになるだろう。
わたしにとっては父となったときが愛情の曙と言え、以降それに照らされた景色が当たり前になったから、以前どんな心で生きていたのか、記憶はもはやおぼろなものでしかない。
子らと一緒に遊び風呂に入り海で泳いで山に登り、大きくなると一緒に勉強したり本を読んだり映画を観た。
そんなシーンがいまも鮮明。
助手席にはいつも息子が座り、腹の内から胸の内までいろいろと語り合った。
そして学校の懇談のあとは向き合って焼肉を食べた。
子らが巣立ってからは離れて暮らすが、やりとりの濃さ分量はさして変わらない。
気づいたときには父となり、これまでその役割について深く考えることはなかった。
部屋着がふんわり暖かく、それでちらと役割について考えて、息子らも同様その暖かさを享受していると思うから、まあそれが役割ということでいいのだろう。