ひさしぶりに映画でも観よう。
家内と意見が一致し神戸に出た。
何を観ようか。
カンヌで受賞したとのことで話題になっている『ドライブ・マイ・カー』を選んだ。
日曜日のくつろぎ感に溢れる元町で昼を済ませ大丸で買い物してからシネ・リーブルに足を向けた。
最前列に幾つか空席があるだけで館内はほぼ満席だった。
公開からずいぶん時間が経っているのに大入りであるからいい作品であるに違いない。
わたしたちが予約した席は後方のど真ん中だった。
先に座る客の膝元に分け入って中へと進んで着席し、スクリーンを見据え期待に胸が高まった。
退屈すぎて死ぬほど苦しい三時間が始まろうとしているなどこのときは露ほども思わなかった。
狭い館内ですし詰め。
そこにじっと座り、退屈に次ぐ退屈に雁字搦めにされる時間は苦痛極まりなく、「シネ・リーブル」のシネを漢字で書けばどうなるか。
この日ばかりは柄の悪い言葉を振り払うことができなかった。
横で家内も苦痛に苛まれていることが手に取るように分かった。
かといって上映中、ど真ん中の席で立ち上がり、多くの方々の膝頭をかき分けて退出するのも躊躇われた。
苦しみ。
感想はこの一言に凝縮される。
皮肉なことに作品テーマと通底するから、考えようによっては奥深い。
そして、観客はみなこの苦しみを共有していたように思う。
所々で寝息が響き、こんなアートには付き合えぬと席を立つ人もなくはなかったが、多くはこの苦しみに耐え抜いた。
もしわたしが二十代であれば、『ベルリン・天使の詩』を観たときのように何か有用なものを汲み取ろうと集中し感動に至ることができたのかもしれない。
が、もはやわたしは五十過ぎ。
もって回った表現を長々と受け身で享受するには歳を取りすぎていた。
生きることは苦しい。
退屈で冗長な表現が積み重なって、映画のメッセージをカラダの芯から体感できた。
だからようやく映画が終わったとき、夫婦でどれだけ安堵したことだろう。
映画館を出るとそこには光に溢れた神戸の街があった。
冬の冷気の中、山と海の香が微かに漂い、わたしたちは自由に歩き回ることのできる歓びにひたった。
映画によって損壊した日曜日の貴重な時間は場の力によってたちまちのうち埋め合わされていった。
このときわたしたちに浮かんでいた笑顔は、映画のラストに通ずるものがあったと思う。
登場人物らが発するモノローグが劇中劇のラストでようやく奇跡のように噛み合って、映画の中では拍手喝采にて幕が下りる。
続いてのラストシーン、ドライバーみさきが大写しになった。
場所は韓国。
北海道を出て広島で暮らし、その先へと彼女の人生は「進んだ」のだと分かる。
乗り込むクルマは彼女のアイデンティティと受け継がれた大事な何かを象徴し、同乗するワンちゃんは喜びを分かち合う存在と言えるだろう。
つまりラストはハッピーな要素が顔を揃え、みさきはクルマを走らせ満面の笑みを浮かべる。
このラストシーンと同等の笑顔を浮かべ、わたしたちは神戸の街を歓びとともに歩いたのであるから、苦痛ではあったが多かれ少なかれこの映画にシンクロしていたと言えるかもしれない。
そういう意味で忘れがたい映画体験となったのは確かなことだった。