関西にも訪れる場所が数多ある。
先日の京都に続き、この夜は神戸で息子をもてなした。
待ち合わせは午後7時。
ジムを終えてわたしは家内と一緒に電車で三宮に向かい、長男は友人らと映画を見終え梅田からやってきた。
集合場所はステーキの名店ルブージー。
山が間近にあって、薄明の時刻、風が吹き降りてくる。
心地いい風を正面から受け、駅を背に歩いて10分ほど。
わたしたちが着席してまもなく息子も姿を現した。
ビールで乾杯し、何を観たのか映画について聞いてみた。
「ドラえもん」との答えに一瞬、冗談かと思ったが、号泣したとまで言うからどうやらからかっている訳ではないようだった。
大の男が揃いも揃って。
家内は唖然としていたが、よく考えれば、彼らは「ドラえもん」とは切っても切れない間柄にあった。
あれは高2の学祭。
総合司会を長男が務め、京医と阪医の親友が脇を固めた。
司会するのであるからオープニングとエンディングに凝るのは当然。
勉強そっちのけ。
彼らは出だしとシメを飾る動画の制作に明け暮れた。
「ドラえもん」をモチーフにしたその動画は西大和の伝説となった。
伝説は生き永らえ、口伝えで受け継がれるようにいまもその動画は内密裡に行き交っている。
残念ながら、親はまだその動画を目にしていない。
古文の金本や銀本とは異なり友人を伝手にしても入手できる見通しは立っていない。
おそらくチャンスは長男の結婚式。
そこで親友がその記念碑を開陳してくれるに違いない。
そのように彼らにとって「ドラえもん」は特別な存在なのであり、だから単に童心に返って映画に興じた訳ではないのだった。
あれがマンガだと思うのは表層的な解釈に過ぎる。
彼らはきっと言うだろう。
「ドラえもん」を見れば唯一無二な人間関係の本質、すなわち友情の真実を感知することができる。
だから、泣ける、ということが起こり得る。
事情を知れば、何ら不思議なことではないという理解に至る。
わたしだって下手すれば泣くだろう。
ルブージーは前菜のハムやムール貝から最高美味を保ち続けた。
ワインは結局3本空いた。
凄腕の手にかかれば肉はこんなに上手に焼きあがって唸るほど美味くなる。
なんて美味いのだ。
バカの一つ覚えみたいにわたしたちは同じフレーズで肉をたたえ、つまり、バカになれるほど美味いということであるから、これはもう一種の超越体験に近いという話であった。
だからもちろん二男の分も追加で焼いてもらい、おみやげのパンを有り難くもらって、また来るよと皆が機嫌よく店を後にしたのだった。
帰途、わたしと長男が横並び。
夜の神戸を海に向いて歩いた。
意思決定において未来の要素を組み入れるべきだろう。
わたしは息子にそんな話をした。
いつか女房をもらって子に恵まれる。
その名をたとえば、金太郎と桃太郎としてみよう。
可愛くて仕方がない。
女房のことと金太郎と桃太郎。
まだ見ぬ彼女と彼らのことを頭の隅に置くだけで、未来に照らされるように筋道見えて、意思決定の精度は増すはずである。
長男は頷きながら言った。
金太郎と桃太郎。
そんな名前は絶対につけない。
後ろから家内がわたしたちの背をしきりに写真に撮っている。
ごつい背中が二つ並んで、ここに二男がいれば三つになる。
そしてあと二十年もすれば、ごつい背中が七つくらい並ぶことになる。
未来に照らされ、家内のiPhoneにはそんな背中が多々写り込んでいたのではないだろうか。