日常がルーティン化して、どの日を取ってもますます似たようなものとなっていく。
日記を通じてそれがよく分かる。
年を追うごと活性が弱化し、どの日もどの日も似たりよったり。
この経年観察により変化の減衰具合が視覚化されているようなものである。
息子らが過ごす目まぐるしい変化の日々と対置すれば「止まっている」も同然。
なるほど、と思って構図が浮かぶ。
わたしは足を止め、ネット裏から場内を走り回る息子らを物見している野次馬。
そんな情景がしっくりとくる。
子らが成長するにつれ、物見の感情移入は増していった。
幼稚園のお遊戯や小学校の運動会にも目を注いだが、ラグビーやホッケーの試合であれば食い入るような目となって、受験となればその目に火まで灯った。
注視といったレベルに至って、長きに渡る。
だからだろう、昔は興じたスポーツ観戦の類にいまわたしは全く関心がない。
甲子園球場での阪神巨人戦ならいざ知らず、日生球場での近鉄ロッテ戦になど目もくれない。
そう喩えれば分かりやすいだろう。
そしてこの先もネット裏から離れることはないだろう。
老いが兆し、老い先ルーティンと化したこの身であっても手に汗握って飽きることがなく、家内と感想を述べ合って話も尽きない。
で、あらためて平和のありがたさをひしと痛感する。
彼の地から悲痛な話がいくつも聞こえてくる。
どこであれ誰であれ子どもに何かが降りかかるという話ほど耐え難いものはない。