帰途、コープに立ち寄った。
レジのおばさんが丁寧に過ぎ、両手を前に揃え深々とお辞儀したから違和感を覚えた。
ノンアルビールを数本買っただけの客にここまでするだろうか。
で、思い当たった。
先日、レジのアルバイト女子を助けるため、難癖をつける女性客をここで強く諌めた。
そのやりとりは目立ち、以降、わたしは要注意人物と目されているのかもしれなかった。
店を出て考えた。
あのときのわたしの対応は適切なものであっただろうか。
執拗にイチャモンをつける女性客に対する「怒り」が蘇って思う。
あの状況を変えるには、怒りの介入は不可欠だった。
問題はそれが短気に発したことだろう。
怒りはいざとなれば有用で、生きる道具箱のなか備え置いてあった方がいい。
が、短気は損気というとおり、あって得することなど何もない。
熟考すべきプロセスが端折られて、荒く精度の低い、視野狭く奥行きのないその場かぎりの行動を導いて、たいていは禍根を残す。
特に仕事においては短気は根絶してしかるべきだろう。
仕事柄、一夜限りといった関わりはなく、どれもが長い時間を跨いでの付き合いとなる。
だから短気の出る幕などどこにもなく、しゃしゃり出れば関係に支障を来たす。
あのときは怒ってよかった。
怒って当然だった。
しかし、怒りと足並みを揃えていたのが短気であったことについては自らを戒めねばならない。
もしわたしがその場で気長に構え、怒りは内に秘め、頭に血が上った女性客を強く叱りつけるのではなく理解を示した上で嗜めていたらどうであっただろう。
そうしていれば、火に油を注ぐ結果にはならず、女性客がマネージャー室に駆け込んでさんざん声を荒げることはなかったであろうし、わたしも怖い人との烙印を押されることはなかっただろう。