KORANIKATARU

子らに語る時々日記

無用な言葉が不吉な予言となって成就する

先日のこと。

家内はママ友らと数年ぶりの再会を果たした。

息子の就職内定を互い喜び合って積もる話にひとときふけった。

 

暮らし全般に渡ってつつがなく、みな幸せそうであった。

懐かしい面々と過ごす時間はだからとても居心地よく楽しいものとなった。

 

そんななか、ふと不快感を伴う昔の一場面が頭をよぎった。

 

十年近くも前のこと。

かつて家内を当てこすった人物は、その友人たちを目にして言った。

「華がない」

含み笑いを浮かべつつの言葉であったから、強烈な蔑み以外の何ものでもなかった。

 

見た目や持ち物だけで誰かのことを辛辣に評価するその感覚に家内は寒々としたものを覚えた。

 

家内のママ友らはみな人柄よく、多くの美質を持ち合わせ、おまけにバックグランドもかなりのもので、頭も良くてみな富裕だった。

ケチの付け入る隙などない者ばかりであったから、「華がない」と見下す侮蔑的かつ排他的な目線は、家内が暮らす一般社会の常識からかけ離れたかなり特殊で奇異なものと感じられ、かつ不快であった。

 

あれから月日が過ぎ、それらママ友らの子どもたちは立派に成長し、そして、各自の暮らし向きはより一層よくなった。

 

家内は思った。

百歩譲って彼女らに華がないとしても、単に華美を飾らない分別が備わっているからこそのことであって、しっかり堅実に暮らし、結果、果実はたわわに実って、その確かさ、充実ぶりはそれはもう見事なものだと言うしかない。

 

翻って、どうだろう。

皮肉なもので、かつて家内を当てこすった人物にはいまや華もなければ実も見当たらない。

空想まがいの階層意識は、これぞ砂上の楼閣と言うしかなく、なんと切ないものだろう。

 

かくして「華がない」との心ない言葉は当の本人にとり不吉な予言となって成就した。

まさに天に唾するような話だったと言えるだろう。

2022年7月7日 南森町 しまなみふれんち Murakami