いま家内はヨガ友らと仲がいい。
健康や美容について情報交換し日々前向きに取り組む仲と言えるからある種の同志と言えるだろう。
家内と夕飯を食べつつ、ここ最近の交友関係についての話になった。
きちんと関係が残るには「同志」という要素が欠かせない。
たとえばママ友であれば「我が子が推し」という点で共通し、そういう意味で「同志」と括ることができる。
しかし、同志であっても残る仲と消える仲というものが存在する。
残る仲の方がはるかに少なく、ほとんどの仲は「季節物」といった趣きで、そんな人もいたなあ、と回顧するような対象となっていく。
関係が長く続くには、同志という要素の他に、同質性という要素も不可欠なのかもしれない。
子どもが園児の頃であれば、子どもたちはみな小さく、まさにどんぐりの背比べで、母は一様に若く家庭自体も駆け出しで、さほど大きな差は見られない。
ママ友らの黄金時代とも言え、みなとっても仲がいい。
しかし、そんな同質性の命は儚く、数年もすれば跡形もなくなる。
過ごした日々の結果は集積し、同質だったものがやがて異質なものへと変貌していく。
子どもの知力体力といったものに歴然とした差が生じ、母の見目形にも差が開き、家庭の経済力にも格差といったものが生まれる。
だんだん話が合わず、そうなるとグループを形成していた磁石の強度が薄れてしまい、次第疎遠になるのもやむを得ない。
おばあさんになっても仲良く。
当初そう言い合っていたとしても、なかなかそういうことは起こり難い。
まるでふるいにかけられるように親しい仲が消えていく。
だから、長く付き合う人が数人でも残れば恵まれた話と言えるだろう。