仕事をしていると、いいこともあれば悪いこともある。
いいことがあればもちろん僥倖。
しかし、深刻な事態に陥るのでない限り、悪いこともいずれはいいことの範疇に収まっていく。
つまり、よい結果へと結びつくスパンが異なるだけで、ほとんどすべてがいずれは花咲く、いいことの種と見て間違いない。
何もなければ考えない。
いろいろなことが降って湧くから、必死になって頭を捻る。
そのようにして捻り出された知恵はすべて後々に亘って有用で、だからそこに親冥利という言葉も当てはまる。
人生の先発隊として奮闘し、たとえ一片でも二片でも子らが参照できる情報を得たのであれば、本望と言えるだろう。
長い時間で捉えれば、自身が負った傷さえ珠玉。
要はそういうことである。
そして、これもまた前提にしておいて間違いないが、深刻な事態に陥ることなど滅多にない。
せいぜいお目にかかっても、人生に一度程度といったところだろう。
それなのに、原始の頃の習性か。
ひとつ間違えれば命取りといった大げさな感性のままおっかなびっくりわたしたちは日々を過ごしている。
だから、取るに足りぬ物事についてまで、生きるか死ぬかといった二者択一的観点で深刻の度合いを取り違え、安寧な日常に身を置きながら命を削る。
ここはひとつ、深刻癖を意識的に放擲するのはどうだろう。
どんな種であれ、しめしめきたきたとその一粒を思う存分味わい尽くす。
おおらかなまでのその貪欲が、そこから抽出できる情報量を最大化する。
やはりどうやらいいことずくめとみて間違いない。