前日の雨で街の目詰まりがきれいさっぱり洗いすすがれた。
樹々の緑をはじめ空の青など目に映るすべての色彩が鮮やかとなって、空気もひときわ清涼に感じられた。
そんな土曜晴天の朝、家内と連れ立ちそこらをぶらりと散歩した。
芝公園から六本木方面へと歩き、麻布十番を経て地下鉄を使って銀座へと足をのばした。
しかし好天は午前中で店じまいとなった。
正午を合図に雲行きが怪しくなって、食事を終えたときには雨が降り始めた。
夜に予定が盛りだくさんであったから体力を温存するためホテルに戻ってのんびり過ごした。
夜の部の一番手は麻布十番の登龍だった。
首都高速の高架下を歩いて雨をしのぎ、予約時間の午後5時ちょうどに着いた。
店名に高級中華とあるとおり2階客席はハイソな客層で埋まっていた。
しかし、そんななか子連れがいて、一人のちびっ子の行儀がことのほか悪かった。
落ち着きなくしきりに物音を立て、時に泣いて、かなり耳障りで傍にいて不快に感じられた。
やんちゃ坊主を高級店に連れてくる場合、個室のある店を選ぶべきだろう。
そう思うが、うちの坊主たちなら席を立って走り回っていたであろうから、人のことは言えない。
まあお互い様だと状況を受け入れ我慢することにした。
と、その悪たれが、隣のテーブルの若い女性に向けてあろうことか布ナプキンを投げつけた。
父親が大慌てでそのテーブルに駆け寄って謝罪するが、年の頃六十過ぎと思しき連れの男性の方は黙っていなかった。
「投げるってのはよほどのことだ、どんなしつけをしてるんだ」
父親は屈んだまま平謝りするほかなかった。
それを屈服のサインと見たのか、男性は立ち上がり、文字通り上から目線の舌口は更にどぎついものになっていった。
「ここをどんな場所だと心得ているんだ、場違いにもほどがある」
今度は母親がテーブル越しに謝った。
あたしが店の選択を間違ったのです、申し訳ありませんでした。
衆人環視のもと、これ以上とっちめれば形勢が不利になる。
そう男性は瞬時に判断したのだろう。
「他の皆さんもきっと不快に思われているよ、こんな場所に連れてくるなら、きちんとしつけしなきゃ」とトーンを下げて席に座り直した。
なんとかそれで場が収まって、悪たれもこれ以上悪さをすれば致命的になると動物的に悟ったのだろう、以降静かになり2階のフロアはこの世の果てともいうべき静寂に包まれた。
うちの坊主たちはどちらかと言えば、その悪たれのカテゴリーに属していた。
だから、身につまされるような思いとなりつつ、わたしがその父親の立場ならと想像を巡らせた。
「お連れの若い女性が美人だったから白羽の矢を立ててしまったようです、まだ子どもなのに困ったもんです、パパ活のお邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした」といった風に場を和ませようと謝罪しただろう。
それでもまだ嵩にかかって圧をかけてくるようであれば、「できるもんならまずはおれの方からしつけてみせろ」と、匙を投げる代わりにわたしの布ナプキンをその男性に投げつけてしまっていたかもしれない。
男の子を育てることは簡単なことではなく、「しつけて」思うようになるのであれば苦労はいらない。
第一、「しつけて」思うようになるのであれば、行儀のいい犬かなにか、それはもう男の子とは呼べない別のしろものというしかない話だろう。
かつてうちの坊主たちもエネルギーを持て余すくらいやんちゃだった。
それで身内にも眉をひそめられ疎まれた。
しかし親として大事にすべきなのは、お上品ぶったそんな身内の者では決してなく、息子らのエネルギーの方であった。
わたしたちなら、こんな御大層な場所にやんちゃな息子を連れてくるなどあり得なかった。
しかし開き直る訳ではないにせよ、どこであれ顰蹙に怯まないふてぶてしさというのだろうか、冷たい視線をさえ糧にして子を守るといった気概のようなものが男子の子育てには不可欠だった。
確かに傍迷惑な存在であったことは否めない。
が、それで親もまた人間として少しは成長できたと思う。