夜半降り続いた雨があがって、緑の香りもふんだんにとても爽やかな朝が訪れた。
部屋の窓を開け、陽の光と清涼な空気を部屋に取り込んで、わたしは28階から地下2階に降りまっすぐホテルのプールへと向かった。
朝7時、プールで泳ぐのはわたしひとりだけだった。
地上の光がやがて東側の窓から差し込んで、土曜朝のくつろぎ感がプールにも満ち満ち始めた。
そんななかゆうゆうと水を切って、思った。
土曜日の朝、目覚めて何の迷いもなくプールに直行したのだから、これこそがわたしのやりたいことの筆頭と言っていいだろう。
何が一番したいか。
そんな問いを自らに向けて思考を介在させれば、まったく違った答えが出てくるように思える。
考える余地なく無思考であったからこそ、ピュアな本心が眼前に浮上し、わたしを導いた。
もしこの週末をいつもの寝床で過ごし、ああでもないこうでもないと考え始めていたら何がなんだかよく分からなくなっていたのではないだろうか。
そういう意味で、考えることがいつだって正しいとは限らず、もし誤った思考を積み重ねれば、どんどん本心からかけ離れた場所へと自らを彷徨わせることになりかねない。
だから迷子とならぬよう、時々思考の慣性を絶って累積する誤りをゼロリセットすることが大事と言えるだろう。
そのためには過ごす場所を変えるのがいちばんよく、そこで心は静まって本心と向き合える。
かつてブルース・リーは言った。
考えるな、感じろ。
しかし、わたしたちはついついうっかり考え込んでしまう。
まさに言うは易く行うは難し。
「感じる」ことは容易ではなく、そのためには居場所を変えるなど種々工夫が欠かせない。
泳ぎ終えてジャグジーに身をひたした。
深酒がカラダに残した不全感はきれいさっぱり消え去っていた。
噴き出す温かな気泡が間断なく身を打って実に心地いい。
身を包むその噴流とシンクロするかのように、身中には清々しいような勢いで不純物ゼロの本心がぶくぶくと湧き立ち始めていた。