塾に通えば誰だって、灘を夢見ることになる。
小4となる春、長男が塾に通い始め「灘」との光り輝く目標が彼の頭上にも瞬きはじめた。
遠い昔のこと。
わたしも例外ではなかった。
小6となる春、阪神受験研究会の公開テストを受け、700人ほどの受験者のなか710番くらいの順位だったが晴れて入塾が許された。
はじめて受けた春期講習の隣の席が、いまも忘れない33期の新町くんで、わたしは課される問題がほとんど解けず、隣の新町くんに笑われているような気がして逃げ出したいような気分に陥っていた。
そんな受験生初日の昼、母が教室まで弁当を届けにきてくれた。
それをわたしは恥ずかしいと思ったから廊下の端に立つ母の姿がいまも目に焼き付いているのであるが、理由はどうあれ、その場面が目に焼きついていてほんとうによかったと思う。
最劣等からの出だしではあったものの日を追うごとに慣れ、やがて成績は一気に加速し浮上していった。
それで調子に乗ってこの下町の少年は、これなら階級をあげてヘビー級でもいけると勘違いする生意気なボクサーのように、「灘」なんてことをちらと口走って学校の友だちらに格好つけたのだった。
それで学校の担任であった小笠原先生が家へとやってきたことがいまも忘れられない。
小笠原先生はわたしの母にこう言った。
灘なんて、絶対ムリですよ。
実際、小笠原先生の言うとおり、灘など遠い星空の更に向こうで輝く別世界の太陽のような存在でありつづけ、結局は手近な星の光に手が届くので精一杯という結果で中学受験を終えることになった。
ちなみに合格発表は母と二人で見に行った。
受験番号570を掲示板に見つけ母と一緒に喜んだことが懐かしい。
うちの息子たちはわたしよりもはるかによく健闘した。
が、力及ばずそれぞれに見合ったレベルで落ち着いた。
ちびっ子時代に高い目標を持ち、すべてが総動員されるあの戦いの渦中に身を置いたことは有益な経験であった。
単に勉強しただけに留まらず、内に宿ったガッツなど今と陸続きに活きる貴重な副産物が多く得られたように思える。
あの道がこの道へと続いていた。
そう思うと感慨深い。