朝5時から自室で業務をこなし、あらかた片付いたので午前7時半には家を出た。
今にも雨が降り出しそうな空模様であったが墓参りの時間まではもつように思えた。
実家で父をピックアップし、その際、家内が父のために作ってくれた料理を玄関に積み置いた。
20日を翌日に控える金曜だったからだろう。
次第、クルマの数が増え始め、奈良方面へと向かう路線は下りであるはずなのに混み合っていた。
やがて雨が降りはじめ雨量は尻上がりに増していった。
まさか大雨に見舞われるなど思ってもないことだった。
傘を手にして墓参りはままならない。
結局、傘を脇にのけてずぶ濡れになりながら、父とともにお供えをし線香を手向けた。
二年前のこの日の深夜、急な報せを受けわたしは阪神高速を大阪市内へと向けひた走った。
ガラスのパーテーション越しに見たのが母の最期の姿だったが、眠っているようにしか見えなかった。
そのような最期の姿をこの目にするとは思いもしないことであったし、父と二人でこうして母に対し手を合わせることも思いもしないことであった。
思いもしなかった。
異なる解釈を差し挟みようもない厳粛な現実に対し為す術なく、ただただわたしは頭を垂れて雨に打たれるのみであった。
霊園を後にするとたちまち雨脚が弱まって、空には少しずつ明るさが兆しはじめた。
実家で父をおろし、わたしはパゴダ白雲へと向かった。
たまに母と一緒に昼を食べた店であった。
最後に一緒に昼を食べたのは四年近く前のことだった。
天王寺で仕事を終え、思いついて母に電話しここで待ち合わせた。
自転車に乗ってやってきた母の姿が懐かしい。
そして、そんなささやかな昼の場面においても母の母らしさがすべて凝縮されていた。
自分の分をわたしに分けてくれようとする母の性分は昔から一貫したものであり、支払いまでしようとする親心も相変わらずのものだった。
カラダだけ元気やったらええで、と言う定番の決まり文句も耳に残っている。
思い出して、すべてが愛おしい。
ひとりで食事を終えて昼過ぎ。
いつしか店は大勢の客で賑わっていた。
そんななかに母の姿を思い浮かべ、わたしは店を出て自分の持ち場へと戻った。