蒸し風呂みたいやな。
暑いとしばしば母はそう言った。
犬山城の階段は傾斜が急で細くて狭い。
中に空調があるはずもなく、大勢の人が押し寄せていたからその温熱が加勢して、拭けども拭けども汗が噴き出した。
まさに蒸し風呂さながらであったから、わたしは母の言葉をその口調とともに懐かしく思い出していた。
戦国時代のリアリティの一端を感じつつ天守から四方の景色を見下ろし、小一時間ほどで城は十分に満喫できた。
われら軟弱の徒。
国宝見物もほどほどに、ホテルステイを楽しもうと犬山城を後にした。
わたしたちは着替えてフィットネスで汗をかき直し、サウナと水風呂を楽しみ、夕刻の時間を温泉につかって過ごした。
おやつに食べた天むすがまだお腹に残っている。
だから夕飯はいらないと家内が言った。
わたしは小雨降るなか薄暮の古道をつたって街へと向かった。
あてこんだとおり犬山駅周辺に幾つも飲食店を見つけることができた。
ひとり気楽に夕飯をとれそうな店を見つけて、普段、仕事の帰りにいっぱいやるみたいに食事した。
さすがに夜になれば家内のお腹も減るだろうと思って手羽先数種をテイクアウトし、飲み物を買おうとコンビニを探したがかなりの距離を歩かねばならなかった。
部屋で飲む分をなんとか調達し、もと来た道を引き返した。
道は暗く大人でもちょっと怖気を覚えるほどだった。
夜道の向こう、はるか昔に存在しただろう野武士の姿を思い描きつつ、それも怖いが、真横をもの凄い速度で突っ走るトラックの方がはるかに恐ろしかった。
無事、ホテルにたどり着きその懐に一歩入って平穏が訪れた。
家内は部屋のソファでくつろいでMTVをみて昔を懐かしんでいた。
手羽先とビールとワインの差し入れを喜んで、お腹が減ったと言ってルームサービスでパスタとフルーツを頼み、そしていつしか部屋飲みが始まった。
ライトアップされた犬山城を夜空に見ながら夫婦で飲んで心底思った。
渦中に置かれるより、遠くから眺める方がはるかにいい。
あの時代にはこんなに快適な冷房もこんなふかふかなソファやクッションもなくこんなに冷えておいしいビールもハイボールもなかった。
故きを温ねて新しきを知る。
昔のことを思えば今の良さが心底身にしみる。
言い習わされてきたことわざの真の意味をわたしはこの歳になってはじめて知った。