いつのことだったか。
いいかっこしようといった気持ちが消えた。
あれからいったいどれだけの月日が流れただろう。
気軽に付き合える人ばかりに恵まれ、等身大の自分で事足りる。
だから何か背伸びしたりいいものを身につけそれで泊をつけようといった必要性がまったくない。
かつて青二才の頃。
突き詰めれば、拒絶されることをおそれてのことだったのだろう。
身のほど知らずにもいいものを着て、いい時計をして、といったことがあった。
いま思えば、そんな自分がダサすぎて震える。
一生懸命に生きてきて、やがて自負心のようなものが「うち」に宿った。
そうなれば、自分の「がわ」についてなどどうでもよくなる。
先日、あるニュースを耳にし、気の毒に思えた。
高級ブランドの一人当たりの消費額で、韓国が群を抜いて世界一になったとのことである。
そして高級車も含めその消費を韓国が牽引している。
その一方、国民が感じる幸福度について、韓国は先進国のなか最下位に近いのだという。
美容整形が日常に溶け込むほど盛んということからも、やはりそうなのだと納得のいく話だと思えた。
身も蓋もない「見映え志向」の行き着く先に幸はない。
そう言ってしまってもいいのではないだろうか。
見映え志向が先鋭化する社会のなか、馬鹿にされたり、蔑まれたら人間関係が立ち行かない。
だから、単に人間関係を保つだけのために高級品が不可欠で、それなりの見た目が必要といったことが常識と化す。
そこでは勝った負けたといった承認欲求が日々争奪されている。
そんな日常が繰り広げられているのだとしたら、なんてしんどく馬鹿げたほどに高くつく世界なのだろう。
それなら孤独な方がはるかにいい、とわたしなどは思ってしまう。
ブランド志向の度合いは日本の方がまだ穏やかだろうが、中には彼の国に出ていっても負けないようなツワモノが揃っているようにも思える。
内にあるのは獣臭ただようくらいの勝ち負け意識で、その勝ち気が高級ブランド品に結びつく。
だから見るべきは、ブランド品の方ではなく、その内でぐつぐつ煮える負けじ魂の方であろう。
そしておそらく幸福からはほど遠く、戦費が不足すれば違法コピーの品にまで食指が動くから、その不毛さには際限がない。
普通の人の輪にそのような勝った負けたといった人物が入り込むと、いきなり人間関係がギクシャクし始める。
人の輪ならまだまし。
それが配偶者だとしたら、玉まで取られる。
何事もほどほどが肝心。
穏やかな日常がそんな勝ち気に損なわれないよう、やはり見るべきは内実へのこだわりの方と言えるだろう。