昼過ぎに送ったメッセージが、夜になっても既読にならない。
何かあったのだろうか。
少しばかり気になるが、まあそういうこともあるだろう、とそのままにした。
明け方、夢をみた。
ちびっ子当時の二男と風呂に入って、わたしは休日の余韻にひたってくつろいでいた。
と、突然。
ちびっ子の二男が風呂をあがってそそくさと服を着はじめて言った。
もう東京に帰らないと。
その小さな後ろ姿を見守って目が覚めた。
現実に引き戻されて真っ先に携帯に目をやるが依然として既読になっていない。
なんとなく悪い予感がする。
しかしこの程度で慌てるなど大げさ過ぎるだろう。
そう思いつつ武庫川へと出て走り終え、やはり家内に話すことにした。
家内には要らぬ心配をさせない。
日頃からそう決めているから、不安要素のある話など一切しない。
しかし、家内に話せば、さっき連絡あったよといった形で取り越し苦労が幕を閉じるのではないか。
そう思って切り出したところ家内の方もメッセージが既読になっていないと分かった。
不安を覚えるや否や家内はすぐに息子に電話した。
ここが男親と異なるところ。
数回呼び出し音が鳴って、緊張感が高まったところでなんとも寝ぼけた感じで息子が出た。
高田馬場で早稲友らとずっと飲んでいたという。
そこから15分、息子の友だち談義がはじまった。
ほっと一安心し、思った。
これがわたしたちのコミュニケーションの基本形なのだった。
「心配」に先導されて、コミュニケーションが密接に成り立っていく。
思えば、うちの父も母も何かと言えば心配が先にくる性分だった。
だから子への望みは果てしなく低く、父からすれば自由に生きているならそれでよし、母からすれば元気であればそれでよし、他には何も望まない親だった。
わたしたちも同様。
心配が生む良からぬ絵空事を思えば、求めるものは単純素朴なものに集約される。
また、わたしたち親の心配が、実のところ子の身を守るお祓い効果を生むようにも思える。
裏返せば、心配しなくなったらそこで親は親でなくなると言っていいだろう。
まもなく長男からメッセージが届いた。
これから慶應の後輩を連れ横浜スタジアムに行くという。
ベイスターズに3タテを喰らって首位陥落となるかもしれない。
息子はそう言ってタイガースの身を案じるが、梅雨の合間の晴天の日曜、デーゲームを楽しむ息子を思って親はなんとも楽しい気分になるのだった。