春を思わせる陽気に恵まれた日曜日、家内と連れ立ち三田のアウトレットへと出かけた。
オープンと同時に各店舗を見て回り、まずはマーガレット・ハウエルで、そしてブルックス・ブラザーズでシャツや春物のニットなどを選んだ。
選定の際には息子たちに写メを送り、彼らが選んだ品をわたしが試着しサイズを確かめてから会計へと進んだ。
昼前には買い物を終え、よい仕入れができたから気分よく、だからたまにはいいのではと二人でラーメンを食べた。
日曜の憩いの時間を過ごす家族連れに目をやって、家内がぽつりと言った。
うちにはこんな当たり前の日曜日がなかった。
遊びたい盛りであったはずだが、日曜になれば息子たちにはラグビーの練習が待っていた。
遠出するにしても試合があった。
そのうち塾にも通いはじめ、ラグビーの練習後は日曜も勉強に充てるのが通常の過ごし方になった。
日曜と言えば安息日であるはずだが、うちではその正反対。
平日にも増して鍛錬の度が強まる日であり、頑張る息子たちを差し置いて親だけで遊ぶなどおよそ考えられることではなかった。
中学、高校となっても同様。
日曜は平日とは別種の鍛錬の日であり続け、息子らにとって安息とは無関係のままだった。
そして、そのサポート役である親にとってもそれは同じ話なのだった。
夫婦でのんびり過ごすような日曜が訪れたのは、息子たちを東京へと送り出してからのことだった。
季節ごとアウトレットに出かけて服を選ぶといったことも、ここ数年でやっと根付いた習慣と言えた。
過ぎ去った鍛錬の日々を振り返りつつ、わたしたちは周囲の家族の様子を眺め微笑ましく思った。
うちもそのようであったかもしれない。
そこにある日曜日の団欒にうちの家族を重ね合わせ、ラーメンや焼きそばといった素朴な品を食べ喜ぶ息子たちの姿を思い浮かべた。
で、ふと息子たちの言葉を思い出すことになった。
それぞれ時期は異なるが、長男も二男も大学生になってからわたしに言った。
ラグビーをやらせてくれてありがとう。
長男のときも二男のときも、唐突にそんな言葉が発せられたから、それが心からの言葉であるとわたしには分かった。
確かにうちの家族は日曜の団欒とは無縁であった。
が、鍛錬の日曜が積み重なって彼らの内に備わったものがあった。
各自それぞれ大学生になってひとりで暮らし、彼らは内に強く刻まれた確かなものに思い至ったのだった。
その感謝の言葉ですべてが報われる。
帰宅して、わたしは武庫川を走り、家内はジムへと向かった。
この夫婦の鍛錬グセはそう簡単には治らない。